バリ島駐在記「3世紀におよぶ植民地化と独立」

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割れ門
(写真はバリ島寺院の割れ門「チャンディー・ブンタール」)

 17世紀、イギリス、フランスによってインド、マレー半島から追い出しを食ったオランダは選択の余地もなく、さらに東海域に存在するインドネシアへの侵入と植民地化を図った。

 最初に標的となったのは、資源に恵まれたスマトラ島とジャワ島。これらの島から胡椒、椰子油、シナモン、ウコン、コーヒー、ゴム、石油、材木ではマホガニー、黒檀、紫檀、チークなどを収奪、ゴム園では大量の現地人を雇用、ゴム園内だけ通用する貨幣まで創った。

 インドネシアの首都、現ジャカルタをバタビアと命名し、総督府を置いた。長崎の出島にあったオランダ館とは頻繁に往来し、情報の伝達を行った。

 1万を越える島で構成されるインドネシア全体に直民地化を推し進めたが、バリに触手を伸ばしたのは19世紀末に至ってからで、植民地化の遅れはバリ島にオランダ人が望む資源がなかったからだ。

 オランダの軍隊に最後まで抵抗したのは二、三の王国で、他はほとんど戦うことなく、その支配下に置かれた。

 特筆すべきは、バリ人特有の集団催眠で、ケチャックダンスが好例だが、集合ダンスによる催眠状態から陶酔状態を惹起、死ぬことが甘味に思える状態にみずからを昇華させ、勝てぬ相手の標的となってバタバタと死んでいくバリ兵士の対応に、さすがのオランダ軍も火器による威嚇と支配をあきらめ、王族をそのまま認めて、地域ごとの治世をそれぞれの王に任せる道を選んだ。

 「バリ人が体質的に催眠にかかる傾向が強い」とは、アメリカの人類学者、マーガレット・ミードの指摘にもある。

 1942年、日本軍が宣戦布告直後にインドネシアに上陸するや、オランダ軍は蜘蛛(くも)の子を散らすように、退避、逃避(大半はオーストラリアへ)したが、日本の敗戦と同時に、ふたたびインドネシアに戻り、宗主国としての権威を再構築したものの、インドネシア人にはすでにオランダによる支配に服する意志はなく、独立戦争へと走った。

 その折り、もともと軍も兵士もいなかったインドネシアをバックアップ、兵卒の教育、戦の仕方を教えたのが敗戦後もインドネシア各地に残った日本兵で、ゲリラ戦を展開、最終的に独立を勝ち取る。

 戦後、かつての日本軍に対して不快感をもつ国は多いけれども、インドネシア人の対日感情が悪くならなかったのは、独立を勝ち得るために日本兵が死を辞さずに協力したことによる。


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