バリ島駐在記「バリの少女」

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 「バリ島体験記(その23)闘鶏」で触れたが、軍鶏(しゃも)を私に売りつけたのが農家の男で、男の住む地域はギャ二アールというところに所属するクムヌーという村であった。

 この男の属する家族と親しくなったきっかけは、ひとえに「マデ」という名の美少女にあり、小さなウォターフォールの見える観光地の一つで、そこに赴いたとき、多くのバリ人が、大人も子供も交えて、土産物を売ろうとして待ち構えていた。そのなかに、背丈が135センチほどの小柄な少女がいて、賢そうな目鼻立ちと、きらきら光る黒い瞳が印象的で、すっかり魅せられた。

トゥングヌガンの滝
(写真はウォーターフォール/右隣はバンジージャンプ)

 大勢の大人たちのなかから少女を呼び、「家はどこなの」と訊いてみると、インドネシア語が通じない。やむなく、ドライバーのA君の力を借りて、辛うじて意志の疎通を図った。

 学校ではインドネシアのどこに行ってもインドネシア語を共通語として教えるるが、普段の生活では、それぞれの地域の人間はその土地特有の言語を口にし、バリではバリ語を使う。テレビを見るときくらいが、家族、一族郎党がみなで共通語に接する機会なのだ。目の前に立つ少女はまだインドネシア語には堪能ではないらしく、このときの会話はすべてドライバーを仲介した。

「あの畑の向こうに見える森の近くに、わたしの家があります」

 マデはしっかりした口調でそう応じた。

「君の家にわれわれを案内してくれないかな」との要求にも、

「はい、いいです」と、屈託がなく、

「じゃ、車に乗って」との誘いにも、遠慮せずに、後部座席に体を入れた。

 「ここです」と、マデが示した地点に駐車し、すぐ降車して、門のなかに入っていく。見たところ、門から両側にブロックの塀がしてある。

 「スラマット・シアン」(こんにちわ)いきなりインドネシア語が響いたので、顔を向けると、一人の老婆が上半身裸でタオルで体を拭いていた。この年齢の方なら、かつてはみな上半身裸で歩いていたわけだから、恥ずかしいという気持ちは希薄なのだろうと納得しつつ、先導するマデの後を従いていくと、なかは二百坪くらいあり、個々に家屋が並んでいる。

 マデによれば、共有する場所があり、それは料理をするところ、食事をするところ、米や麦などを貯蔵する場所、葬儀のとき遺体を安置する場所、儀式用の場所などで、あとは血を引く者たち、つまり祖父母、父親の兄弟らの家族がそれぞれ家屋を建てて居住しているという。大家族が互いに援けあいつつ生活している実態、様子が想像された。

 マデの家の前には一般家庭にはないテレビ(小型だが)があって、そのことに驚きを示すと、「これは、家族でお金を貯めて、相談して、買うことに決めたんです」と説明、「君があの滝の見えるところで土産物を売って儲けたお金も、役立っているわけだね」との問いには、「うん」と頷いた。

 ややあって、父親が噛み煙草をグチャグチャさせ、口のなかを真っ赤にして帰って来、続いて母親が頬にも髪にも田んぼの泥をへばりつけて帰宅した。父親が30歳、母親が25歳だと聞いて、マデを15歳で生んだことを知った。もし、マデが15歳で子を生んだら、母親は30歳で祖母になる勘定だ。田舎で結婚が早いのは、ひとえに労働力が欲しいためで、むかしは日本でも同じような状況があった。

 「ここがわたしの部屋です」と、マデが案内した部屋は、バリ人が一般に好む大理石などで床を覆っているようなことはなく、すべて土が剥き出し、天井には裸電球が一つあり、部屋の隅に木製のベッドがあり、壁に着るものを掛けるハンガーがぶらさがるという殺風景な部屋だった。勉強する机も椅子もなく、学校だけが勉強の場所であり、帰宅後は家を手伝うことをモットーとするバリ農家の典型的な家という印象だった。小作農の収入では大理石でなくとも、床を木の板でフローリングすること自体が無理なのだ。

 「あのー、旦那、お願いなんですがね、うちの女房と三人の子供にデンパサールを見せてやってくれませんか? 女房は過去に一度だけ行ったことがあるんですが、子供たちは行ったことがないんですよ」

 両親に並んで、三人の子供が必死な形相で私を凝視する。

「いいですよ。じゃ、これからいきましょうか」

「助かります。ありがとうございます。じゃ、仕度しますので、ちょっと待っていてください」

 母親は子共を促し、屋内に消えた。

 やがて、洒落た衣服に着替えた母親が髪を整え、口紅までつけて現れ、子供には三人とも、それなりの格好をさせている。

「精一杯のおしゃれってところですね」

 A君がひそかにコメントした。

 長男を助手席に、マデと末っ子を私と母親のあいだに乗せ、車が走りだしたとたん、

「わたしを助手席に乗せて」

 と、マデ。長男は嫌がるどころか、すぐマデと場所を交代した。マデは助手席のほうが景色がよく見えることに、いち早く気づいたのであろう。

 ドライバーのA君の提案で、市内の遊園地へと向かった。家族らは、デンパサールの大きなビル群に目をぱちくりさせて、見守っている。

 到着してみると、遊園地とは名ばかりで、むかし日本のデパートの屋上にあった遊園地に毛が生えた程度のもの。

 A君にルピアを渡し、切符を買ってこさせ、「さぁ」と促すと、男の子二人は怖気付いたか、母親にしがみつくばかりで、愉しもうとしない。街の子にコンプレックスを抱いた可能性もある。ところが、マデは、メリーゴーランド、ゴーカート、馬が上下に揺れるものなど、なんにでも手を出したが、男の子二人はさいごまで見ているだけだった。

 食事の時間になったので、市内のドーナッツ屋に寄り、席をとったあと、私が適当にドーナッツを選んで食卓に載せ、「ドリンクは?」と声をかけると、沈黙が走った。

 「こういうところに入ったのは、はじめてでしょうから」とA君が思いやりを口にしたとたん、「コーク」と、マデから注文が出た。すると、母親も男の子も「それでいい」と言う。

 母親と男の子はデンパサールの雰囲気にすっかり呑まれ、びびっているのに比べ、マデは平然とし、むしろ、何事にも積極的で、愉しんでいた。

 「マデはデンパサールに怖気ないようだから、次の日曜はマデだけ連れて、デンパサールの見残したところに行ってみよう」

 A君が通訳すると、マデは即在に「OK」と意志表示し、母親は渋々「いいでしょう」と口を開いた。たぶん、A君はそのドライブには自分も同行するので、マデ一人でも言葉に問題はなく、同時に危険もないという説明を加えたのであろう。

 次の日曜日に迎えに行くと、マデは黒い髪に薄く油を塗って、待っていた。

 こうして、マデとの初デートがはじまった。

 文房具屋で筆記具とノートを買ってやり、レストランではギョーザを食べさせた。バリ人がにんにくを嫌いでないことを知っていたからだ。そのあと、浜辺を少し手をつないで散策した。

 帰途、ドーナッツを土産に買い、村に帰った。

 小川を見ながら、「ここには夜になると、ホタルはくるの?」と尋ねると、

「季節になれば、いっぱいだよ」

 マデはニコニコ笑っている。

「おれも、こういう娘が欲しいな。いや、子共としてだが」

 そう本音を口にすると、

「おじさんの子に?]

「そういうことになるな」

「じゃ、養子だね」

 マデはあっさりそう応じたが、まんざらでもない顔だった。

 ところが、マデに文房具を買い与えたことが問題になった。母親が「マデにだけ、こういうものを与えて、あとの二人にはなにもないというのは困ります」とのクレームがあった。以来、私はこの家族への接触を意図して絶った。

 勤務先が変わって2年が経ったとき、マデから電話が入り、「逢いたい」という。前に勤めていた会社のオペレーターから電話番号を聞いたのであろう。

 13歳のはずだが、すっかり大きくなって、もう娘さんという印象だった。

 近くのカフェで歓談したものの、用事があって、束の間の逢瀬で、これが最後のデートになるとも思わずに別れた。後刻、彼女としては何か私に頼みごとがあったのではないかと推察したが、バリ人の家庭に外国人が介入する是非を慮(おもんばか)り、訪れることはもとより連絡をとることも控えた。ひょっとして、養子にしてくれとでも言いたかったのかなとは思ったけれども。

 マデからも以来連絡がないまま今日に至ったが、すでに22歳になっていることは判っている。結婚して子持ちになっているか、下の写真のような踊り子になっているか、想像を超えている。

 以来、クムヌー村のマデのことを忘れたことはない。ただ、マデ一家と知己になったおかげで、バリの小作農を営む人間の生活ぶりや人間性に触れることができたことは何よりの収穫だったと思っている。

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