バリ島駐在記「スパイだった日本人と結婚したバリ人の妻と、その家族」

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バリの風景

 1997年、バリ島で一人のバリ娘と出遭った。年齢は26歳、黒髪を長く垂らした容姿が少女のような娘だ。

「わたしの体には日本人の血が四分の一入っているんですよ。父の父が日本人なんです」というプライバシーの開陳が、私の興味を強く惹いた。

「すると、あなたにとっては祖父にあたる人が日本人で、あなたはクォーター、あなたの父さんや、お父さんの兄弟姉妹はハーフってことだね」

「そうなります。わたしも日本語の勉強をしてますが、父はわたしなどよりずっと上手です」

「で、あなたの祖父は日本のどこの出身?」

「沖縄です」

「ほう、沖縄ね。もし、可能なら、あなたのお父さんに会う機会をつくってくれないかな」

「いいですよ。父もデンパサールに住んでいるし、簡単なことですから」

 数日後、彼女の父親にあたるTさんに会って驚嘆した。Tさんの容貌はまるで日本人、肌の色などはバリに居住する日本人などより、よっぽど白い。祖父の出身地に住む沖縄の人(私が個人的に知っている人々)に比べたら、さらに白い。しかも、口にする日本語は普段つきあっているガイドのレベルをはるかに超え、同国人と話をしている気分に陥るほど巧みで、古い日本語すら知っている。

 Tさんが身の上話をはじめた。

 「わたしの父親は、太平洋戦争が始まる数年前からバリ島に居住してまして、海亀を捕獲しては、それを剥製にし、日本に送るという貿易の仕事に従事してましたが、あるとき、1941年頃だったと思いますが、突然、オランダの官憲がやって来て、父は逮捕され、連行されていきました。その頃には、私をはじめ、妹も弟も生まれていて、そのようなことが起こるとは夢思ったことはありませんでした。当時、インドネシアはすべてオランダの植民地だったのです。

  半月後だったと思います。父から手紙が舞い込み、消印から察して、手紙がジャワ島のスラバヤから送られてきたことを暗に告げていました。つまり、スラバヤの捕虜収容所にいたということです。

  手紙には『いままで長いあいだ黙っていて悪かったが、実は、自分は日本のスパイ専門の学校、中野学校出身で、軍からバリに送られた人間。結婚をし、家族もできた今、このような羽目に陥り、落胆というより、悄然たる毎日を過ごしている。家族に対して申し訳ない気持ちで一杯だ。スパイであることを打ち明けられなかったのは、軍の規律によるもので、明かすわけにはいかなかった。とはいえ、わたしはバリの妻を、バリの家族を愛している。いずれ、戦争が終結したら、わたしはかならずバリに戻り、あなたがたと生活を共にすることを愉しみにしているし、そのように決心もしているので、そのつもりで待っていて欲しい』といった内容が書かれていました。

 Tさんの父親が沖縄出身であることに、私は多少怪訝な気持ちになった。なぜなら、いまでこそ、安室奈美恵に始まって、仲間由紀恵、ビギンなどなど沖縄出身者がタレントの世界で活躍、ゴルフの世界でも宮里愛をはじめ多くのプロが名をしられるようなって、いずれにしても出身地を隠すなどということはあり得ないけれども、戦前、戦中は当然としても、戦後ですら、しばらくのあいだは、韓国の出身者と同様、沖縄出身者も出身地を隠すのが通例だったからだ。

 日本人の悪い癖というほかはないが、かつて日本人一般は沖縄の人間を韓国人や中国人と同様に扱い、侮辱した時代がある。戦争でアメリカにボコボコにされ、コンプレックスの塊になった日本人にも、逆に、コンプレックスを解消するための対象がむしろ強い必要性を帯びたといってもいい。30年前まで、そうした実態は継続したと、私は見ている。

 そうした社会的状況のなかで、沖縄出身者が当時、有名を馳せたスパイを養成する「中野学校」に合格し得たことに驚愕したのだ。おそらく、Tさんの父親は格別に優秀だったに違いない、また、複数の外国の言葉を覚えるに敏だったに違いない、そういう判断が瞬時に脳裡の底でなされた。

「父がバリ島にいた頃、父はバリ語はもとよりインドネシア語も流暢に話すことができた」というTさんの話からも、その人物が語学に秀でた人物だったことが判る。また、その点を高く評価され、いずれは石油の産地であるインドネシアを攻略することになる可能性を前提として、日本軍部がかなり前から現地の言語をマスターさせたうえで、複数のスパイを敵国の支配する地域にばらまき、活動させていたことが想像される。

 「わたしは長男ですが、下に妹と弟がいます。インドネシアは3世紀ものあいだオランダの植民地でしたから、そういう状態から脱して、独立したいという希望はだれもが持っていて、それを可能にしてくれるとしたら、日本人をおいてないという考えがわたしの母親だけでなく、大方の人にあったと思います」

 Tさんは一息つくと、
 「それから半年も経ってはいなかったと思います。日本軍がインドネシア各地に上陸を開始すると、あれだけ威張っていたオランダ軍は蜘蛛(くも)の子を散らすように逃げてしまい、これで父はスラバヤの収容所から解放されたに違いないと思っていましたら、しばらくして再び父から手紙がきました。消印はオーストラリアのシドニーで、そのことから、父がオランダ軍の手によって日本軍が侵攻してくる直前にシドニーに移送されたことを知りました」
 と言って、溜息をついた。

 「手紙には、『いまシドニーにいるが戦争は遅かれ速かれ終焉を迎えるだろう。そうなったら、自分は日本に帰らずに、真っ直ぐバリの家族のもとに帰還するつもりだ』との言葉が執拗に書かれていて、父が出身地にではなく、バリにホームシックに陥っている様子とともに、わたしたち家族への愛情がじかに伝わってきました。

 「1945年、太平洋戦争が終結しました。、わたしは10歳になっていましたが、日本人捕虜の本国送還が始まりました。父は事情を説明し、自分はバリに家族がいるので、日本にではなく、バリに帰還したい意向を再三にわたって懇望したのですが、聞き入れられず、沖縄に戻されました。

  父としては、選択の余地もないまま、沖縄に帰り次第、バリに渡航することを考えていたらしいのですが、当時の沖縄はアメリカ軍による占領後、その統制下にあり、役所に何度も通ってバリへの渡航を嘆願したが許されませんでした。スパイで捕虜となったことは、戦争犯罪者とみなされ、沖縄の地から外に出ること自体が許可の範疇に入っていなかったのだと思います。

  ところが、当時、日本に帰還せずにバリにいた奇特な方で、三浦さんという日本人がいまして、その方に日本兵が残していった子供たちと一緒に面倒をみてもらったものです。なかには、私の父のように愛情を貫いてバリ女性と体の関係を結び子をなした日本兵もおりましたが、単なる遊びで、結果受胎してしまったいるのに、帰還用の船舶に乗って帰国してしまい、残した家族の面倒など一切見ないという例もかなりあったと聞いています。

  当時、沖縄がいつ日本本土に復帰できるのか、だれにも予測はできませんし、父としては諦めるしかなかったのでしょう。父から母宛ての手紙には、沖縄の事情を伝えたうえで、「自分の長年の夢はあきらめるしかなく、わたしはこの地で再婚するつもりでいる。あなたも良い人がいたら再婚して、新しい人生を進まれるよう」という内容が書かれていました。別離の手紙を書いた父親も書きながら泣いたでしょう。手紙を受け取って読んだ母も泣いていました。

  しばらくして、父は沖縄の女性と再婚し、一子(娘)をもうけ、母もバリ人の男性と再婚して、互いに新しい人生を歩むことになりました。

  わたしは子供のころ父親から日本語を教えてもらっていましたから、戦後はわずかに訪れる日本人のために通訳をしたり、観光客なら運転手兼ガイドもやって、生計を立てたました。とはいえ、父親はいないわけですから、成長するまでには相当に苦労しました。

  いまのようにパソコンもない時代です。日本からパラパラと五月雨式にやって来る観光客を空港でつかまえて、ほんのときどき職にありつけるという状態でした。戦後、バリが見直され、日本人の居住者も次第に増えてくるにつれ、そういう人からお客を紹介してもらいました。

  1973年頃だったと記憶していますが、ある日、一人の日本人男性を観光客として扱う機会がありました。父からの最後の手紙からはすでに30年弱の歳月が流れていました。

  車を運転するわたしに向かって、その人、Aさんは、『君は日本語が上手っていうばかりでなく、色は白いし、顔はまるで日本人、純粋のバリ人ではなかろう』と言います。

  『はい、実は、わたしの父は沖縄の人間です』

  『いやぁ、それは奇遇だ。わたしも沖縄の人間です。沖縄からやって来たんですよ。この土地は、風景にしても、土の色にしても、屋根にしても、沖縄とよく似ている。たぶん、お父さんはこの土地にいて違和感をもたなかったと思うな』

  この人ならと思ったわたしは、父にまつわる話を細大漏らさずAさんに告げました。

  『実は、最近、アメリカが沖縄を日本に返還したんです。そのおかげで、わたしも日本のパスポートをもって、こうして海外旅行ができるようになりました。たぶん、君のお父さんが沖縄に帰られて30年近い年月が経っているし、すでに70歳近いお年だろう。日本本土への復帰がどういう変化をもたらしているかについて細かくは知らないでいる公算が高い。お互いに、別に家族をもったとはいえ、一度は会いたいという気持ちは君自身はもとより、君の兄弟姉妹も、君の父親も母親も同じ気持ちではないのかな。住所さえ判れば、見つけだすのは簡単なんだが』

  Aさんの言葉に力を得た私は、観光地からの帰途、母の家に寄り、父からの古い手紙を持ち出してきて、Aさんに見せた。Aさんは封筒の裏側に示された住所を見ていたが、『あぁ、那覇の小禄(おろく)じゃないか。わたしのオフィスから車で10分、15分て距離だよ。尋ねて行って、君に会ったこと、現在ならその気さえあれば、バリに渡航できることを伝えてみよう』と、約束してくれた。

  半月後、父からテープの入った郵便包みが送られてきた。メモ用紙には「手が不器用になって、充分な話が書けないから、テープを聞いて欲しい」と書かれている。テープを流したとたん、バリ語がわたしたちの耳に飛び込んでき、仰天した。バリ語はインドネシア語とは異なり、丁寧語、敬語を含んだ相当に難しい方言である。それを数十年が経過して、その間、使う機会すらなかったであろうバリ語を流暢に話す父の記憶力に驚嘆しただけでなく、そのこと自体が父がいかにバリを愛していたかを物語ってもいて、母もわたしたちもテープから流れてくる父の声に耳を傾けつつ慟哭しました。

  メモには『いずれ近いうちに、バリに沖縄でできた娘を連れて行く』ことも書かれてありましたが、沖縄からやってきたAさんが約束を反故にすることなく、即座に実行に移してくれたことも知れ、Aさんとの運命的な出遭いにあらためて感謝しました。

  1974年、年老いた父の体を一人の娘が抱えるようにしてタラップを降りてきます。やつれきった父の顔に、流れた時間の長さを感じつつ、わたしたちは声もなく、言葉もなく、ただただ抱き合って、涙を流しました。

  その後、父は1985年にあの世に旅立ち、母は1998年に複雑だった人生を終えました。」

 
 戦争がもたらした異国人との遭遇、異国人の血を受けた子共の個人史、戦争のために離散せざるを得なかった歴史的な皮肉、いずれの話にも私は感動し、Tさんが訥々(とつとつ)と語る話に相槌すら打てなかった。

(上の写真はバリの風景)


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