バリ島駐在記「観光の幕開け」

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バリヒンドゥーの葬儀

 先のエントリーにも書いたが、バリ島へ初めて観光団がやって来たのはオランダがインドネシアを植民地支配していた時代で、当然ながら、飛行機ではなく客船を使って西欧からはるばるやって来た。到着先はデンパサールではなく、北部にあるシンガラジャ(シガラジャと書かれる場合が多いが正しくはシンガラジャ)。

 ちょうどマレーシアのサバ州(ボルネオ島)で現在はコタ・キナバルに飛行場があり、州都でもあるが、むかしは船が係留できる東岸にあるサンダカンが都であったように、バリ島ではシンガラジャが都であり、船はすべてここの港に入ったから、観光もすべてこの地を基点として始まった。

 観光の目玉は王族による「葬儀」で、上の写真は一般人のための(バリヒンドゥの)葬儀で黒い牛が使われているが、王族の葬儀は5メートル以上もある張りぼての棺をドラゴンやライオンの形につくり、「ワダ」と呼ばれる、日本の山車のような塔も立派で丈も長く、数千人規模による葬儀となるため、オランダ人観光客にとっても、その様子を見たいために船客となってシンガラジャに入った。

 対象となった王国はシンガラジャから遠くないクルンクンやカラガサムで、王族の誰かが亡くなると、バタビア(現在のジャカルタ)経由、本国に報され、観光客の募集を始めたという。その間、王の遺体は氷づけにされて腐敗を防いで時間を稼いだ。

 当時、葬儀のほかは、シンガラジャから遠くない北部エリアだけが周遊コースで、デンパサールまでやって来る例は、軍人、商人をおいては全くなかった。 とはいえ、「観光の幕開け」は宗主国のオランダ人によってなされたことに間違いはない。

 戦後は、デンパサールに空港が開設され、東洋人やアメリカ人よりも、近隣のオーストラリア人、旧宗主国のオランダ人、西欧人によって観光開発され、デンパサールで最も若者や観光客が集まるクタはサーファーによって名を知られるようになり、バリ人のセレモニーはあくまでバリ人自身のためのセレモニーであったものを観光上の目玉になるよう西欧人が数々のアドバイスを行い、踊り、音楽、服装などに色彩を加え、物語の流れや構成にも工夫をこらし、今日見られるようなセレモニーになった。 

 有名なケチャックダンスもドイツ人のアイディアで現在の形が決まったわけで(1930年)、バリの観光には、西欧人が深くかかわっていたことを認識しておくべきだろう。ケチャックダンスに女性が出演するなども、西欧人のアドバイスによるもので、これによってダンスの雰囲気に色気が加わった。

 シンガラジャの港はオランダが宗主国であった時代のものより現存する港の方が規模が大きいが、それは日本軍がこの地を攻略した時点で、艦船が係留できるよう、日本軍の手で規模を大きく変えたといわれる。


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