バリ島駐在記「大戦の責を一人で償った男・三浦襄(みうらじょう)」

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観光用馬車

 この話も、前エントリー「スパイだった日本兵と結婚したバリ人の妻と、その家族」に関連するので、前エントリーを読んでから、本エントリーを読んで欲しい。

 戦前、バリ島に敬虔なキリスト教徒であり、誠実を絵に描いたような仙台出身の日本人男性がいた。その名を三浦襄(みうらじょう)というが、スパイとしてインドネシアに入国したわけではない。

 1930年、妻と三人の子供を同行、永住を決意してバリに渡り、薬の販売、雑貨の行商、貿易業、タイヤの再生産、コーヒー園の経営を経た後、最終的に自転車の販売と修理業に落ち着く。当時、新品の自転車は牛一頭とほぼ同額の高価なものだった。とはいえ、インドネシアの牛は食用としては不味くて食えず、百%農耕用であり、現在でも一頭につき5万円とはしない。

 1933年、家族に四女が誕生した段階で、子共の教育はバリでは無理だとの判断のもと、家族を仙台に帰す。

 三浦がバリに渡った最大の理由は、彼の胸底に、江戸初期に伊達政宗の命で伊達藩の武士が欧州に渡り、法王パウロ五世に謁見することができたものの、帰国後は鎖国制度に順じ、武士らは腹を切ったという歴史的な事績があったからだと、後日、娘たちは憶測している。

 バリに足を踏み入れた当時、インドネシア全島はオランダの植民地であり、日本人は三家族しか住んでいず、バリ島の現州都、デンパサールに居住するのは三浦一家だけだった。その後、少しずつ、日本人の居住者が増えていった。(当時の州都は北部にあるシガラジャ/Singaraja)。

 米国との緊張関係が度合いを強めていた1941年、日本陸軍は三浦にバリからの日本への強制退去を命ずる。その間、オランダ総督府はバリに遺された三浦の資産をすべて凍結した。

 (ただし、スパイとして送り込んだ日本人は逮捕された)。

 太平洋戦争が勃発した直後、海軍司令部は三浦の語学力と現地を熟知する能力を評価、バリ島侵攻への道案内兼通訳として上陸部隊千人に同行することを命じ、1942年、再びバリ島の土を踏んだ。オランダ軍はすでにジャワ島かオーストラリア大陸に逃げてしまったあとだったが、島民は日本軍のなかに三浦が存在することに安堵し、軍がいうところの「インドネシアの独立を援けに来た」という言葉を信ずるにやぶさかではなかった。

 その頃、前回のブログで話したTさんのお父さんはすでにシドニーに移送され、捕虜生活を送っていたが、捕虜になる寸前、バリ島で健在だった時代、三浦さんとの面識はあったという。

 三浦は根が人を疑わぬ性格だから、軍部がしきりにお題目として口にする「大東亜共栄圏」なるものを信じ、インドネシアの独立を願っていた人々に対し、「いずれ必ず、日本軍がオランダからインドネシアを取り戻し、独立を成就させる」と、バリ州のトップや管理する上層部の人間にも説いてまわり、あわせて、日本軍と一般庶民とのあいだにトラブルが起こらぬよう、最大限の配慮をした。

 他国を支配することに成功すると、若い日本兵のなかには横暴限りない挙に出る兵が少なくなかったが、三浦はよく仲介役を果たし、犠牲になりかかったバリ人の多くを助けた。

 おかげで、バリでは軍と民とのあいだに大きな騒動は起こらず、終戦を迎えたが、軍部が盛んに宣伝した「大東亜共栄圏」などという言葉がおためごかしに過ぎず、侵略と植民地化という、西欧諸国とまったく変わらぬ領土拡大への意図が裏にあったことが次第に表面化され、否定しようのない事実として三浦も理解するようになっていた。

 敗戦を迎えたとき、インドネシアに残った日本兵のなかには、「この期に及んで、日本におめおめとは帰れない」という兵が少なからずいて、インドネシアの独立戦争のためにオランダとの戦を指揮し、生きて日本に帰る意思のない彼らは文字通り命を賭け、最終的にインドネシアを勝利に導き、独立を達成させる貢献をした。こうした歴史的事実はあまり知られていないようだが、日本軍はインドネシアでも日本人や朝鮮半島の慰安婦のほか、現地で、慰安婦を募ったけれども、日本兵の生き残りが犠牲になることを忌避せずに協力したことで、独立も可能だったし、インドネシア人の対日感情は悪くならなかった。

 その後、バリ島でも、兵隊らが急遽本国へと送還され、なかには現地人を妻にして子までもうけていた兵も少なからずいたが、顧慮することなく、船に乗り、祖国である日本へと去っていったばかりか、その後手紙一つ寄越すでもなく、むろん金銭的な支援もなく、バリ島には経済的に困窮した子女が続出した。見るに見かねた三浦は、そうした子らを自分の家に集め、教育もし、食事の面倒も見ることによって、少しでも、日本が遺した惨禍を償おうと努力した。そういう中に、前ブログで紹介したTさんも、Tさんの妹も弟もいたのである。

 Tさんによれば、ある日、「三浦さんは州のお偉方や一般人を数十名公会堂に集め、演説をした。内容は母親から聞いたことだから、うろ覚えだが、日本軍がこの地に来て、大東亜共栄圏を創るといっていたが、そのことを私も信じて、あなたがたにも伝えた。そして、あなたがたも、私の言葉を信じ、わたしと同様、独立後のアジア全体の連携を夢に描きもした。ところが、正直に申し上げるが、日本軍の大本営はその言葉を宣伝文句として使っただけであり、領土への野心はあったが、インドネシアを独立させようなどとは、わずかにも思っていなかったことを私は後日になって知った。私はそうとは知らず、結果的にあなたがたを騙すことになった。これは、明らかに、無責任きわまりないことで、そのまま知らぬ存ぜぬで頬かむりできる問題ではない。私は自身の矜持と、日本人としての誇りを胸に、この無責任な言動に決着をつけなければいけないと思っている。三浦さんはそう胸襟を開いて話したそうです」

 後日、2005年2月9日の産経新聞によって知ったことだが、三浦はこのときの謝罪でバリ島内の39群を駆け巡って、それぞれの土地の有力者を集めて演説を行い、最後の演説をデンパサールで行い、600人をまえに悲壮な面持ちで演説し、自裁をほのめかしたといわれる。

 Tさんの話が続く。「それから、数日後、わたしたち孤児が外で遊んでいると、三浦さんの部屋からいきなりピストルの射撃音がしました。驚き、慌てて、三浦さんの部屋のドアを開くと、彼はすでに後頭部に弾丸を打ち込み、顔を血の海のなかに浸した形で死んでいました。自分が持っていたピストルを使って自殺したのです。バリ人にとって、三浦さんが特別の人間として考えられるようになったのは、こうした経緯があったからです」。

 「三浦さんは、死を直前に、自分はこの地に骨を埋め、この国の独立を見守るとの言葉も残していました。独立が成った後、わたしたちは州政府の協力を得、三浦さんを知る人からも僅かずつ金を出させ、デンパサールの一隅に墓を造り、そこに三浦さんの遺体を埋めましたが、州政府は男を一人雇用して、わずかな金を与えて、墓守をさせています」。

 以上の話を耳にするや、私は現場に飛んでいった。バリに入ってすでに4年も経つのに、私は三浦という人物を知らず、そのことを恥辱とも思い、かつ慙愧の念にもかられたからだ。

 墓は、デンパサールの繁華街よりはだいぶ手前に存在し、太い道路から遠くはなく、道路には観光客を乗せるための馬車が数台おかれ、馬の糞が鼻をついた。墓はコンクリートで囲まれ、なかに遺体が埋められているのだろうと察したが、名前と死亡年月日が刻まれていて、一人の老人が汚い帚をもって立っていた。

 私は合唱を終えると、老人に幾ばくかのチップを与え、早々にその場を立ち去った。

 聞けば、三浦は宮城県仙台の出身で、1977年、ある民放TVの企画で、娘さんがたがわざわざバリまでやって来て、墓参りをしたという。そして、案内と通訳を買って出たのが、かつて三浦さんのお世話になったTさんだった。Tさんは「これがそのときの録画で、日本のテレビ会社からもらったものです」といってビデオテープ一巻を私に手渡した。「もし、興味があったら、見てください」と言いつつ。

 自宅に到着するなり、ビデオをまわすと、TV番組の最初に「太平洋戦争の責任を一人で償った男」というタイトルが出た。

 このような日本人がかつて存在したことを、私は知らなかった。この男の志向や決断にこそ、敬謙なるキリスト教徒であることを超越した「武士道」の本質を感ずる。現代の日本人にこのような責任感や矜持の心を失っていない者がどのくらいいるだろうか。

 人間はだれにも公平に一回だけ死がやってくる。その一回をこのような死で決着をつけた三浦という男に、私は感動とともに、限りない羨望を覚えた。

 ちなみに、当ブログの「バリ島駐在記」にはウパチャラ(upacara)「儀式」に参加しているバリ人の女性風景を撮影したものを頻繁に出しているが、戦前、戦後しばらくのあいだ、女たちは上半身を剥き出しで歩いていた。ブラジャーやシースルーの上着を着用するようになったのはセレモニーが観光化されたためであり、観光化に寄与したのは悉(ことごと)く西欧人だった。

 セレモニーの在りかた、様子、すべて、戦前のものと現在のものとには大きな相違がある。ちなみに、そういう古い写真を「スパイだった日本人と結婚したバリ人と、その家族」を知るきっかけをつくってくれた孫にあたる娘さんに見せたところ、「超びっくり」という顔をした。彼女ですら、バリの女たちがつい最近まで上半身裸で闊歩していた事実を知らなかった。

 「神々の島」とか「天国に最も近い島」とか表現するが、信仰の対象であるアグン山が爆発して600人が被害に遭って死んだり、そのアグン山にパンナム機が激突したり、最近ではテロがデンパサール市内の繁華街で二回も起こったりしている。そういう島が「神々の島」だとは私には思えないし、むしろ「神々を渇望する島」という印象がある。バリ人のなかにも、正直で、誠実な人間も少なくないが、頭のなかは「金」「金」「金」で占められている人間もいる。

 バリに「バロンダンス」というのがあり、通常の市内観光に組み込まれている。内容は二匹の動物が戦って、結局は、勝負がつかずに終わり、現地のガイドは「人間には悪い面と良い面があること、物事にも、たとえば車は便利だが、空気を汚す面があり、すべてはコインの裏表だ。要するに、人間には善悪が半々にある」というような説明をするが、私には、人間は良い面より悪い面の方が勝っているようにしか思えず、だからこそ、本エントリーの主人公である三浦という日本人男性に日本人一般が既に失ってしまった漢(おとこ)を感じ、武士道を見、畏敬の念を覚えるのだ。

 以上の話は、まずTさんからの聴取、1977年に遺族がバリを訪問したときのビデオ録画、そして、上記した産経新聞による調査をベースにまとめたことを記しておく。

 ただ、最近になって、この墓の存続について、インドネシア政府内に議論があり、「個人の墓であるかぎり、墓の維持費については遺族にその責務がある」との談話があった。三浦さんの墓は靖国神社とは違う。バリ人が三浦さんを慕い(「バパ・バリ」(バリ島の父)と呼ばれた)、その温情と恩恵に対して建立したものである。バリ州政府が維持、管理を行うのが全うな姿勢だと、私は思っている。

 賄賂が当たり前になっている国の為政者が、金にもならない三浦の墓のケアに金をかけることに拒否感をもつのは、金にならないからという単純な底意地の悪さに起因している。スカルノから、スハルトへ、現政権へと連鎖する「癒着と賄賂」の流れが未だに続いていることを暗示してあまりある。

(上の写真はバリの一風景だが、こうしたところの裏に墓所がある)


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