こわくない物理学/志村史夫著

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こわくない物理学

「こわくない物理学」 志村史夫著  新潮文庫
副題:物質・宇宙・生命

 

 本書は素人にも理解できるように、できるだけ内容を砕いて説明しているが、対象が対象だから、むろん限界はある。

 最も印象に残ったのは「科学は知れば知るほど科学の限界を知る」という著者の言葉。

 古代ギリシャ人は古代オリエントから吸収した技術や知識をベースに哲学のレベルにまで高め、エンペドリンスなどは「元素説」「化学反応論」の先駆までなした。 むろん、ピタゴラスは数学者として、ターレスは哲学の創始者として、紀元前に名を残した。

 にもかかわらず、それら研究や解釈がサイエンスへと進まず、呪術や宗教へと向かってしまい、科学として停滞してしまったのは、専制的国家体制が呪術や宗教を背景とすることによってみずからの延命をはかろうとしたことに原因があるだろうという。

 (ことに、専制君主に保護された教会は聖書に書かれていることが、どの部分であれ、科学的探索や研究によって間違いであることが証明されることを非常に恐れた)。

 16世紀にはコペルニクスが「地動説」を、17世紀にはニュートンが「万有引力の法則」をガリレオ・ガリレーが「慣性の法則」と「落体の法則」を、ケプラーが「惑星運動の法則」を、ベーコンが「帰納法」を、デカルトが「思惟を属性とする精神と物体論」を発表。、ときのカトリック教会に衝撃を与えた。(ガリレオは最終的には牢獄に繋がれ、倖せな終焉を迎えていない)。

 以後、ハップルの「赤方偏移」の発見と「宇宙膨張」の発見、さらにはルメートルの「火の玉の爆発理論」、ガモフの「ビッグバン理論」、ビッグスの「ビッグス粒子理論」と「クウォークと質量」の提案、ホイルの「ビッグバンへの異説」と「一つのビッグバンから一つの宇宙が誕生したとは考えにくく、無数の宇宙が同時並行的に別々の時空をもって複雑に創生されている可能性」についての示唆、、ハイセンベルクの「不確定性原理」の提唱と「量子力学の確立」への貢献、ホーアの「相補性の原理」を経て、アインシュタインの「相対性理論」「特殊相対性理論」からプランクの「量子論」まで20世紀最大の発見に至る。なかにフリードマンのようにアインシュタインの「定数を信じて不変であること」をベースとした理論(宇宙が静止状態になり得る)のミスに気づいた人もいた。

 (とはいえ、アインシュタインの定理は定理みずからが宇宙の静止状態があり得ないことを示していた)。

 そうした天才たちの手によって科学的発見が相次いだものの、「生命体はすべて物質でできあがっているし、有機体と無機体とには多くの共通性がありながら、現実には大きな隔たりが存在する。

 科学は生命体の基本構成要素がアミノ酸であり、アミノ酸は一個の炭素原子にアミノ基、カルボキシル基、水素原子、そして特定の原子団が結合したものであることを証明してみせたが、いつ、どの時点で、どうやって、物質が生命体になりえたかを解明することはできずにいる。

 (生命体が物質から発生したという理屈をあらためて認識)。

 シュレディンガーは「生命体は周囲の環境から適当な秩序を吸い取るという驚くべき天賦の能力を備えているのだ」といい、「自己組織化」を示唆した。

 フランスのベルクソン(生命哲学者)は「科学は自然のすべてを知っているわけではない。科学は科学が取り扱い得る面だけを抜きだして、それにあてはめるべき学問であり、これを相補するのが哲学である」といって、「科学万能」をいましめた。

 著者はいう。「物質がどうして生命体になるのかは今後も、永遠にわからないだろう。創造主の存在を想定すれば、すべては解明されるのだが」と。

 印象に残った言葉を以下にニ点:

 「我々にとって可視なものが我々の世界だが、現実は不可視のもののほうがはるかに多く存在する。それは、ちょうど人間の聴覚や視覚がとらえられる範囲がきわめて狭いことと同じである」。

 「進化」とは「変化への対応」であり、必ずしも「進歩」を意味しない。


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