さまよう刃(やいば)/東野圭吾著

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「さまよう刃(やいば)」
東野圭吾(1958年大阪生まれ)著
2004年12月、朝日新聞より単行本で刊行
文芸春秋社  2008年5月25日 文庫化初版
¥705+税

 

 本書は、少年犯罪に対する被害者遺族の傷、痛みを放念したような裁判のあり方、加害者の少年らを更生させる目的で裁判を行ない、殺人を犯してもほんの数年で出所する、あるいは刑期すら免除されるという司法のありようへのアンチテーゼが最大のモチーフとなったサスペンスであり、世の共感を得ようとの執筆意図が底辺にあり、その目論みは成功している。

 少女らを何人も玩具のように弄(もてあそ)び、警察に捕まっても死刑には絶対にならないという知識だけはあって、やりたい放題のことをやり、被害にあった少女の何人もが殺されもする。にも拘わらず、少年らには僅かにも反省の心も謝罪の念もない。「こういう人間は、たとえその時に18歳未満であっても、社会を生きる資格はない」という被害者家族の気持ちはよく判り、「少年らの更生に注力しようという、一見大人的思考」には、実態への想像力が欠如しているか、自分の子供が無残な殺害という憂き目に遭ったらという状況を考えたことがないか、いずれかであって、18歳未満の少年、少女にだって、20歳以上の大人を凌駕する智恵も、配慮も、思念も、思惟も、理解力も、腕力もあるケースは決して僅かではない。

 反対に、バカやアホは年齢に関係なく、いつまで経ってもバカでありアホであり、常識があって社会性のある少年少女はごく若い時期から常識と社会性をもっているもので、作者の主張に私としては全く異論がない。

 ストーリーはかなりの長編だし、起承転結にしても、物語の展開にしても、欠点のない緻密さが全編を覆っているが、たった一つ納得できないのは、本書のスタートにある。

 ティーンエイジャーの一人娘が父親から買ってもらった浴衣を着、仲間とはしゃぎながら夏の花火を見物に出かけて行く。父と娘という二人家族だから、父親にとって娘は大事な宝、花火は8時頃に終わるだろうから、電車に乗って最寄の駅で降り、徒歩10分で自宅という想定で、9時頃には帰宅するだろうと心配しながら娘の帰りをじりじりしながら待つ。

 ところが、事件は駅から自宅までのあいだに起こる。車で待機し、拉致を狙っていた少年ら三人(うち一人は運転役)にクロロホルムをかがされ、連行、暴行、強姦に至り、強姦の場面は録画され、その間に抵抗を和らげる目的で打たれた麻薬注射の量がいい加減で死に至り、遺体を放棄して逃亡する。父親は後日、その録画を見る機会を得、憤怒に燃え、裁判所に任せず、自らが許せない思いを胸に復讐を誓うという設定。

 私に判らないのは、父一人、娘一人の家庭で、父親が娘の夜の外出を心配するのは常識的だが、夏の花火大会という点を考慮すればなおさら、徒歩10分の駅まで迎えに出ない神経が引っかかってしまい、そうした作者の設定も不可解。しかも、この父親は復讐の過程で一人を殺してまでいる。そこまで娘の喪失に心を痛めるのなら、なぜ、年に一度の花火大会の日くらい、歩いてたった10分の駅まで迎えに行かなかったのか、読者として納得がいかない。

 その後の展開に瑕疵がなくても、スタートの一点に腑に落ちぬものを感じたために、読者として舐められているような気分に陥り、流行作家の自負心が生んだ杜撰、あるいはミスだとしか思えず、作者が論理的であろうとする意図を自ら打ち砕いてしまっているように感じられる。

 本書とは別に、私がかねがね疑問に思うのは、「精神鑑定の結果、犯人に罪科を負わせる能力なし」との結果に終わるケースのことで、それならば精神に問題のある人間が野放しになっていることの責任はいったい誰がとるのかということだ。私は、当然、親族だと思ってはいるが。


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