さりながら/フィリップ・フォレスト著

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さりながら

「さりながら」  フィリップ・フォレスト(フランス人/1962年生)著
訳者:澤田直
2008年12月15日 白水社より単行本初版 ¥2,400

 

 表題の「さりながら」は江戸時代に生きた俳人、小林一茶の「露の世は、露の世ながら さりながら」から採ったもので、一茶にフランス人が興味をもったことにも、一茶の句を研究したことにも驚いたし、分析の鋭さにも敬意を抱いた。

 十年以上前に、私は田辺聖子の「ひねくれ一茶」を読んでいて、その本から学んだことも僅かではなく、啓発されたという記憶を強くもっていたし、一茶を扱うにはこの作家をおいてないとさえ思った。

 当然ながら、この本と首記の著作とが顕す「一茶」がどう違い、どう評価され、どうけなされるかに関心をもった。

 本書の著者の言い分、ないし分析を以下に記す。

*一茶の句は正反対の情感を二つ含んでいるタイプのものが多い。例えば、「ありがたや、襖(ふすま)の雪も、浄土川」、「盥(たらい)から 盥に移る ちんぷんかんぷん」

*本当の詩は詩情をこばかにする。しかし、ときに、それは笑劇や軽い冗談の巨大な主題ともなる。

*一茶は2歳にして孤児、彼には最もか弱さをもつものたちが足下にいた。「われときて、遊べや、親のない雀」。一茶の幼少期は信じがたいほど悲しくも美しい物語。5歳のとき、彼は自分を取り巻く世界をすでに知っていた。その悪意も、その無尽蔵の美しさも。

 (「やれ打つな、蝿が手をする、足をする」も、そういった句の一つ?)

*句を口ずさむことは誰かに向けたわけではない。一茶にとっては、夕闇へ向かってあたかも呼吸をするように放ったに過ぎない。「壁に文字、われここにあり、夕日かな」、「こう活きて、居るも不思議ぞ、花の陰(かげ)」。

 世のあらゆる不思議が彼とともにあり、彼の放浪のうちで花咲いた。彼が生きることを選んだ絶対的な孤独が至るところで驚異を生み出した。

*一茶はまさに江戸末席の俳人。遠慮と慎ましさを身にまとった宗匠。「ともかくも、あなたまかせの、年の暮れ」

*一茶の句にはときに要らざる無用で月並みな叡智がみえる。「死支度、致せ致せと 桜かな」「世の中は、地獄の上の花見かな」

*一茶は俳句の句作に規則などへの気を使っていない。死が迫っても、仰々しいやり方で決別を告げるようなこともしなかった。「われひとり、雪の降るなか、われひとり」、自分の子が疱瘡で死んだとき、「春の夢、気の違わぬがうらめしい」。

 (芭蕉との違いを暗示?)

 田辺聖子の「ひねくれ一茶」は存分に面白かったが、それとは異なる視点から、一茶らしい思念や情感などを分析してみせた、フランス人の著者に驚愕と感謝とを捧げる。

 実は、本書は3分の1を小林一茶に、3分の2を夏目漱石に充てている。私は漱石に興味がないので、上記、一茶のことだけに絞って感銘を受けたところをピックアップしたことを断わっておく。

 ひさしぶりに「いい本に出遭った」という思いが残った。


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