されどわれらが日々/柴田翔著

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

されどわれらがひび

「されど われらが日々」  柴田翔(1935年生)著
1964年8月 単行本  2007年11月文庫化初版

 

 1960年前後の学園闘争、安保闘争、革命闘争など、マルクスの資本論、唯物論のロジックに痺れた当時の学生が夢中になり必死にもなって学生運動をくりひろげた時代を背景に、彼ら独特の情感を軸とし、主に男女関係を書いた内容だが、驚くべきことは、学生運動の裏側に多くの乱れた男女関係が存在し、妊娠させられ自死した女性もいたことである。

 「ヴァージニティ(処女性)の価値」とか「プラトニックな愛情自体のうちに既に反秩序的傾向がある」といった、この時代のエリートたちが口にした言葉がまるで虚偽申告のようにも、若気の至りにも思われるし、その一方で、男女間の肉体的な乱れが存在したというのは皮肉以上のものがある。

 当時の新聞には「パルチザン」、「人民」「アカハタ」「コンツェルン」などという言葉が躍っていたが、連日にわたって警察機動隊との衝突に明け暮れ、負傷者も死者も出た。

 本書の内容は、まるで別の世界を覗いている感じというしかなく、男女双方が口にする理屈が現今とは縁遠いというだけでなく、感情の起伏が激しく、心情が不安定で、そういう想念にふりまわされていては、人間関係は必要以上に深刻にならざるを得ないし、安定もしないだろう。

 ある女性が「異様な手術台、光る器具、集中する照明灯、浮かび上がる自分の身体、女がそうしたものを想像することがどんなことか、身体の隅々までが屈辱に熟してくるような恥の感覚」といった内容の手紙を残し、自殺する過程には、当時の男が女の体を知らず、プロテクションをしないのなら、セックス時は体外射精をすべきであって、当時の男は性的には幼児と同じレベルという印象で、頭でっかちの割りに、女性へのいたわりが全く感じられない。

 内容には、長い手紙が幾つか出てくるが、解説者は「現代の若者に読んで欲しい」と言い、「うつろいゆくものへの感慨を若い者にはこんな青春があったという驚きと、人生とはやっかいなものなのだという重さを感じさせてくれる小説として、本書は今に蘇ることだろう」と結んでいるが、共産主義というイデオロギーに冒された学生がほんの一時期みせた狂気の時代に過ぎない。

 現実に、こうした学生運動に邁進した学生は中途半端に頭が良かったためにマルキシズムに麻痺したというしかない。マルキシズム革命が成功した国では、そのとたんから、無くなるはずの階級社会がよりシビアーに再構築され、僅かな支配者の前に人民が膝まづき、競争意識を失った国は資本主義の国々に経済的に大きな敗北を喫した。スターリン、毛沢東、キム・ジョイル、カストロ、いずれも、専制国家に君臨した。イデオロギーの脆さを世界に示しただけに終わった社会構成である。マルクスが標榜した何もそこにはなかった。

 さいごの「真空管やラジオ」の章は本書の内容の本筋とはまるで無縁のもの、1冊の本にするために、意図的にそれなりの厚さが必要だったのではないかと推察させられる。


前後の記事

«  (前の記事)

(次の記事)  »

現在はコメントを受け付けておりません。

サブコンテンツ