ひとたびはポプラに臥す(第二巻)/宮本輝著

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「ひとたびはポプラに臥す」第二巻  宮本輝著
講談社 2002年3月15日 文庫化初版
¥629+税

 「私たちはいつも逃げ出すように出発している。西安からも、天水からも、蘭州からも」という言葉が、土地や風土の暑く乾いた雰囲気をいやが上にも伝えてくる。

 ゴビに入ってから、「シルクロードがなぜ砂漠にできたのか。人々は道を選んだのではなく、穏やかな性格をもつウィグル族の居住する土地を選んだのではないか」という下りは適切な指摘かも知れない。

 (ただ、東西の通商が現実だった時代、ゴビそのものが現在と同じサイズの荒地だったか否かは判らないのでは)。

 作者の「漢民族は人相が悪い。その根底には人を支配したいという欲望と快楽がある」との言葉に、ガイドが反発する。「先生はなぜ漢民族の悪口ばかり言うの? 中国の原爆が怖いのね。中国人が一番醜いと感じている民族は日本人。日本人は醜い。日本人は小さな猿。日本人は電卓をもってる猿」。「そんな猿に侵略されやがって、情けないと思わんのか?」「なさけない。酒を飲むと、父はそう言ってた。あんな小さな国にって」。

 酒泉に向かっているとき、「行けども行けども、ゴビ、ゴビ、ゴビ。熱砂以外になにもないところにいると、ひたすらオアシスを渇望する。なのに、オアシスに一歩足を踏み入れると、いっときも早くゴビへ逃げたくなる。なぜなら、オアシスこそが最も不潔で、汚いところだから。乾燥しきったゴビと水気のあるオアシスとの境で、人間は免疫能力のバランスを崩し、たちまち黴菌にやられてしまう。人間が快適なところは黴菌にとっても快適なところだからだ」。


 (ゴビ砂漠)

 「出発以来、日本人全員に腹痛は続いているが、原因は判らない」

 「酒泉のホテルのベッドも例外ではなかった。枕からはそれまで宿泊した何十人、何百人という人間の頭の匂い、汗などがしみ込んで臭気を放ち、とても頭を置く気になれず、タオルをたたんで枕代わりとした」

 「不毛の大地から突然、堂々たる威容の建物が現れた。それが嘉峪席(かよくかん)だった」。

 (私が嘉峪関で想起したのは、かつて訪れたとき、フランスのパリ在住の日本人画家を同伴していたのだが、この建物が見えるなり、「ここでわたしだけ降ろしてくれないか。デッサンするから」と言ったことで、帰途に拾って次の目的地に向かったことが昨日のことのようだ)。


 (嘉峪関)

 ゴビのなかの土の墓(土葬)に対して、「我、土より生まれしなれば、土に還る。一人にて生まれたれば、一人にて死す。この対象に、これ以上にふさわしい詩はないように思われた」との感想には納得させられる。

 その日の目的地、安西に到着すると、「街に人間の姿は僅か、彩りばかりがバカにどぎつく、豚やヤギやヤクなどが多すぎる。ところが、期待しないで入ったレストランも蝿だらけだったが、出された料理は美味だった」

 昼食後は敦煌を目指す。「敦煌はもともと関所としての重要なオアシスで、西域への道は二つあった。一つは西域北道で、もう一つは西域南道。前者は敦煌から玉門関を経て楼蘭(ろーらん)、クチャへと向かい、後者は陽関を経てホータンからパミール高原へと向かう」

 敦煌に到着した後、作者がホテルの玄関から鉄柵に囲まれた庭に廻ったところ、地元の若者が爆竹に火をつけ、その一つが作者のところに弾け飛んできた。すると、若者が「ニホンジン?ニホンジン?」と訊くので、「そうだ」と応えると、あらためて爆竹の束に火をつけて、作者めがけて投げつけてきた。

 「実は」と作者は語る。「自分がかつてアラスカで道を歩いているとき、アメリカ人の若者にコーラの缶を投げつけられたことがあり、『ジャップ』と嘲るように言われた。また、タイのバンコックでは、汚れたバケツの水をぶっかけられ、『バイシュン、バイシュン』と怒鳴られた。自分にはどうもそういうことがよく起こる」と。

 (私に作者のような経験はないけれども、アメリカのある町で、「Remember Pearl Harbor!」と言われ、即座に「Remember Hiroshima & Nagasaki!」と言い返したことがある。私が敦煌を訪れたのは作者よりかなり以前のこだったが、そこで出遭った人は幕高窟を管理、修復する人たちだけで、閑散としいたし、外国人の訪問者は私たちだけだった。

 作者はしきりに「漢民族」という言葉を使っているが、現代のギリシャ人がコペルニクスやアリストテレスと同じギリシャ人ではないのと同様、現代の中国人はかつての漢民族ではないと思っている。

 「共産主義者にとって、非は常に相手にあり、変節と裏切りの常習犯」という見方に難色を示すわけではないが、書く以上、もう少し説明が欲しかった。中国人の思考には日本人のような心情的なものはなく、もっと乾いているからだ。言葉を換えれば、思考に、より現実的な、より政治的な偏向があるからだ。

 でなくては、世界一の人口のなかで勝ち組には入れない? 中国人に温かさや人情を求めてはいけない)。

 「中国に着いて以来、私につきまとって離れないむなしさは、どの地においても人間的豊かさや風景のたたずまいとしての埋蔵量に接することがないからかも知れない。ここまでやってきただけでも、途中には危機があり、病弊があり、絶望があったが、闘争心を絞り出して立ち向かってきたし、生ける屍のように臥すしかなかったこともあった。先人の鳩摩羅什の60年の生涯にも、そのようなときが幾度もあったはずだ」


 (敦煌・幕高窟)

 「幕高窟(ばっこうくつ)は中国における最大にして最高の仏教遺跡といえるのかも知れないが、私は壁画の斬新な構図や抽象性に感心しただけだった」とは作者の感想。

 (私は壁画に描かれた天女の姿にしか心を奪われなかった。ここからは、かつて、イギリス人も日本人も遺跡の一部を盗み出している)。


 (敦煌の傍にある鳴砂山)

 作者ら一行は夜の7時から足を砂にとられながら鳴砂山に昇った。

 「敦煌でトイレに入った同行者の一人が息苦しいと言って出てきた。中国のトイレに入ると、アンモニアとメタンガスの充満した空気を吸わざるを得ず、息が詰まり、咳が止まらず、胸はしめつけられる。早く外に出て、深呼吸することで痛みは少しずつやわらぐ」 

 作者は25歳のとき強度のノイローゼに、30歳のとき重篤の肺結核にかかり、「その都度、絶望的な状態に追い込まれた」と告白している。作品からは想像もつかぬ神経質な面があることを知った。

 作者の父親がしきりに口にしていたという「なにがどうなろうと、たいしたことはありゃせん」という言葉は人生を達観した名言だと思う。また、作者が記憶している西郷隆盛の言葉、「命もいらぬ。名もいらぬ。金もいらぬという人間くらい始末に悪い人間はいない。しかし、そういう始末の悪い人間がいなければ、世の中を根底から変えることはできない」との言葉にも唸らされる。

 向かう先に「星星峡」(せいせいきょう)という名の町があり、作者はこの町の名に憧憬心をもっていたのだが、「まえぶれもなく、閑散とした集落に入った。人影はまばらで、さながらゴーストタウン。ところが、この町こそが私が憧れていた町だった」。

 「午後三時をまわってしばらくすると、天山山脈の嶺のひとつが視界に浮かんだ。熱砂のゴビで天に浮かぶ雪を見ることの不思議」


 (天山山脈が遠方で冠雪している)

 「ハミに入ると、青い目の少数民族がさらに増えた」


 (ウィグル族の少女)

 「ハミで運転手が三人目に代わり、現地ガイドも替わった」が、全行程を同行するガイド(作者と言い合いをした)は同じガイドが勤める。そのガイドも敦厚ではさすがに腹痛を訴えていた」

 「人心のすさみ、荒廃、治安を守る立場の者たちが発散する悪意や汚濁の蔓延、それらが私をして夜の散策が危険であることをそれとなく伝えてくる。そんな折り、ベッドのなかで『マッチ擦る、つかの間、海に霧ふかし、身捨てるほどの祖国はありや」という寺山修司の歌が心に沁みるように脳裏に浮かんだ」

 「ハミから天山山脈を見ながらトルファン目指して走る。ゴビのど真ん中に何千キロもの道をつくった人たちにも頭が下がるが、同時に、電柱を立て、電線を架けていった人の労苦も言語を絶するものがあったに違いない」

 「途中、湖があるべき場所が干上がっていた風景に接したときは、寂しさとか虚しさといった言葉では表現しきれぬ砂漠地のもつ非情さを感じた」という。

 「トルファンとはかつて火州と呼ばれたくらい熱暑の地域だが、途次、西遊記で名高い火焔山を見た。長さ100キロ、幅10キロの山肌は字義通り火焔に酷似」 作者一行は火焔山を見ながら、一路、トルファンに向かう。

 (私も同じ道を同じ火炎山を眺めながら、トルファンに向かった。」


 (火焔山)

 この作品には膨大な数の写真が、ほとんどカラーで掲載され、読者の想像力を高めてくれるだけでなく、一緒に旅をしているような錯覚にも陥らせてくれる。北日本新聞のカメラマンが同行していたおかげ。

 (私は自分の過去の旅をなぞるような気持ちで読んでいる)。


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