ひとたびはポプラに臥す(第五巻)/宮本輝著

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ひとたびはポプラに臥す

「ひとたびはポプラに臥す」第五巻  宮本輝著
2002年4月15日 講談社より文庫化初版

 「蜃気楼かと思って西方でゆれている銀板のようなものに目を凝らすと、それはヤルカンドの河であった。カラコルムは山脈の北方から流れ下ってタリム盆地へ消えていく大河はこのあたりでは、川幅が980メートルとあり、7-9月にかけて推量が増し、オアシスを育てる」 

 「ヤルカンドは仏教国だったが、9-11世紀にかけて、イスラム系トルコ人の支配下となり、16世紀にチャガタイ・ハーン国の末裔が建てたカシュガル・ハーン国の首都として発展した」

 作者は疲弊した老人がヤルカンド川で馬に水を飲ませている風景を見て、呟く。「人生には得意のときもあれば、失意のときもある、盛んなときもあるし、臥すときもある」と。

 「タクラマカン砂漠を案内できるという土地の青年を雇い、出かけたものの、彼は迷うばかり。途中で人に聞いて、正しい道を知る。いわれた通り、七つの橋を渡って、ようやく眼前にタクラマカン砂漠が静まりかえり、風紋だけが目に入った」

タクラマカン砂漠 地図
 (タクラマカン砂漠を中心とした地図)

 「熱くて微細な砂の名残が天空に熱い幕を張り、それがプリズムの役割を果たして、一つの太陽が二つにも、三つにも見える。これを『死の砂漠の罠』というらしい。砂漠の表面温度はすでに60度に達している。この砂漠は日本列島の総面積とほぼ同じサイズだが、すべて砂の海、また、タクラマカンとは『生きて還らざるところ』との意味」

 「砂漠までの道路わきに盲目の母親らしき女性と少女が二人いて、私たちの車が通過する音を耳にするや、女は手を見えぬ車にむけ、物乞いをした。その姿が目に焼きついて離れない」この光景は以後、しばしば想起させられる。

 「砂漠の至るところに砂のせせらぎが生まれては消えていく。風紋は音もなく崩れ、なにごともなかったかのように新しい風を受けて、また生まれる。そのささやかな、遠慮深そうな、慎ましやかな砂のせせらぎが、夜になると荒れ狂う大海に変貌するなどとは、にわかには信じがたい。空気が急速に冷えて、砂の暑さとの均衡が崩れる深夜、砂漠は狼藉を働く」

 (西域の砂漠化は作者が訪問した時点からさらに進行し、春になると、北京では黄砂が10センチ以上も積もり、はるか日本の関東にまで降るようになった。ある日本人の篤志家がかつて100万本の木を植樹したと仄聞するが、あの広大な土地に百万本は効果がなかったということなのか。砂漠化は中国だけの問題ではなく、近隣諸国にとっても由々しい問題と化し、放置すれば、将来のいつの日か死活問題となっているかも知れない)。

 (しかも、ときとして、中国では過去になかった大洪水が発生し、多くの犠牲者も出ている。中国人は確かに外交や政治の面では格別の能力に恵まれてはいるが、産業廃棄物の処理や先端技術の面では独自のものが未だ世界に信頼されるレベルに達していず、経済成長ばかりを優先する政府主導のあり方には危ういものがり、国民に多大な犠牲を強いることになり、いずれ軌道の修正が必然となるだろう)。

北京市街 黄砂
 (北京市街に落ちた黄砂・現在の撮影)

 「私は歩くのをやめるために、砂に腰を下ろした。砂漠の表面温度は80度を超えたようだった。太陽は二つに減ったようだったが、気温は上昇を続けている。私は私以外、だれの姿もない砂漠に座って、十五分ばかり四方を見つめてから立ち上がり、自分の足跡をたどって戻った」

 80度を超える砂の上に腰を下ろせること自体、尋常ではない。

 「シルクロードのオアシスルートは、いまやアッラーを信じる人々の国である。砂漠とゴビ灘に囲まれた国のイスラム一色の現状において、彼らの信仰こそは、この過酷で、多彩な心の葛藤を運んでくる、弱者の生きにくい風土そのものの持つ虚無や欲望へのポジティブな生命力や徹底した偶像拒否の心情を選択した帰結ではなかろうか」と、作者はやや難しい哲学を披露する。「千夜一夜物語の構造は砂漠の民の血の騒ぎそのものではないのか」とも。

ヤルカンドのイスラム教徒
 (ヤルカンドのイスラム教徒)

 「海辺、たそがれ、ホテルの小部屋、あの人は行ってしまった、もう会うことはない、あの人は行ってしまった、もう会うことはない」というのはハンガリーの詩人、アディー・エンドレの『ひとり海辺』という詩であり、日本人歌手の『横浜たそがれ』にそっくりであることを思い出した。

 (そういうことだったんだ。歌手自身はパクリを知らなかったにせよ)。

 「タクラマカン砂漠からヤルカンドに戻り、さらにカシュガルに向けて車を走らせた」。

カシュガル全景
 (カシュガルの町並み)

 「鳩摩羅什の歩いた道を歩くという思いの底には、いつか自分がこの男の生涯を小説に書きたいという魂胆があったはずだが、シルクロードを旅するうち、それを諦める気持ちが生じていた。『歴史小説』上、確かに存在した人物のことを小説化することへの抵抗が私のなかには根強くある。その人の表情を見、その人の声を聞いたこともないままに、その人が語ったかのように言葉をしゃべらせ、行動させ、心の動きを描写することは嘘のなかの大嘘、つまり、これ以上にない欺瞞、いんちき、もしくは詐欺なのではないかという思いが払拭できない」

 作者が言いたいのは百人の作家が歴史上の同一人物を書けば、百の小説ができあがる。つまり、百におよぶ嘘が書けるということらしい。「自分は羅什を知らず、逢ったこともなく、人となりも、声も、歩き方も、嗜好も、わずかな内面も知らない。そのような人物を書くこと自体禁じ手だという思いがあった」ということで、作者の人柄、真摯な作品への心構えが窺える。

 その夜、シャワーを浴びながら、タクラマカン砂漠の風紋の上に刻んだ自分の足跡と、盲目の物乞いの親子の姿が脳裏にしきりに去来した。

カシュガルのホテル
 (作者一行が宿泊したカシュガルのホテル)

 その夜のお別れ会で、中国側唯一の同行者の若い女性、ウェイウェイがしっかりした別れの言葉を口にし、エーデルワイスを歌った。そのとき、田辺聖子が「女にこそ気位というものが必要だ」と言った言葉が思い出され、「それでぇ、きのう、ナンパされてぇ、つーかぁ」などという言葉しかしゃべれない日本の若い女を想起し、日本の教育の敗北を思い知った。

 翌日、カシュガルからタシュクルガンに向け、出発。唐の時代には三蔵法師も立ち寄り、マルコポーロも滞在したところ。運転手が代わったが、このあたりの地理を熟知したドライヴァー。カシュガルから離れるにつれ、同行者はみなセーターを着始めた。

 「目前にはカラコルムの白く輝く峰々がそびえ、パミール高原のなかの豊かな湿潤な緑と、一向に消えそうにない朝霧が、これまでよりも深く色づくポプラ並木の底から湧き出、野鳥のさえずりも新鮮。風土のからくりが、私たちを異次元の空間にひきずりこんだとしか思えない」

パミール高原
 (パミール高原)

 「ここから西へはほんの少しでタジキスタンの国境、そのまたほんの少しでアフガニスタンの山岳地帯と続く渓谷と険しい山道、そこにはゴビ灘で疲れ果てた我々に恵みが待ち受けているような気がしてきた」

 パミール高原を目前にし、中国の国境警備兵によるパスポートチェックが行なわれた。

 「岳陵地帯が不意に尖った岩山ばかりの山岳地帯に変わったとたん、激流が轟音とともに現れた。ドライヴァーは渡れそうな場所を探し、我々は無事に対岸に渡った。そして、再び、なだらかな丘になり、いつのまにか尖った岩山だらけになり、道に沿って流れる川は太くなり、水流が増え、カラコルム山脈の幾つかの峰がさらに間近に、一向を取り囲んだ。どれもが6千メートルを超える海抜をもつ峰だ」

カラコルム山脈
 (カラコルム山脈)

 「村落の人々の容貌はすでにウィグル人ではなく、キルギス人。彼らはタジキスタンを祖国とするタング族とともに、これから向かうカラクリ湖周辺でも遊牧生活を送っている。土地に根づいて農耕生活を続ける人々もいる」

 「少し眠って目を覚ますと、カラクリ湖の湖面が遠くで光っている。そのことはすでに標高3,600メートルのところに在って、コングール峰とムスターグァタ峰に挟まれる格好になっていることを示していたが、湖はやや陰鬱な、暗い湖面だった」

カラクリ湖
 (カラクリ湖)

 「レストランに寄ったが、海抜の加減で、水が100度で沸騰しないため、米に芯が残り、口にできなかった」

 タシュクルガンに着いたのは午後4時、カシュガルから300キロ。街はポプラ並木が続いている。一行は気温の下降にあわせ、薄いセーターから厚いセーターに着替える。

 「毛沢東の率いていた紅軍は長征の最中、幾多の困難に遭遇するが、そのひとつが揚子江系と黄河系を分ける海抜3,300メートルのチベット高原に近い大湿原に踏み込んだときの兵士のおびただしい死であった。戦闘でもなく、飢えや病気でもなく、体が弱ったのでもなく、死んでいった」という。

 ハリソン・E・ソールズベリーの『長征』には「医師のいうところによれば、『大湿原に人間がいなかったからです』とためらわずに断言した。続けて、『単純な理由です。そこには人が一人もいなかったのです。私たち中国人は人の姿を見かけない、人の声を耳にしない、話しかける人もいない、などという世界に身を置いた経験をまったくもったことがないのです。あのとき、彼らは自分がこの世に残された一人ぽっちの人間だと錯覚し、それが死を呼んだのです』と」。

 (中国人は、13億の民であり、人口密度の高い土地で生まれ、育ったがゆえに、孤独であること、たった一人であることを認識せざるを得ない立場に置かれると茫然自失するだけでなく、自死してしまうらしい。日本人は逆にあまりにも広いところに放り出されると、のんびり過ごすどころか、どうしてよいかわからず、血迷う。中国人は人がいっぱいいるところを、日本人は狭いところを欲する)。

 220キロの道程にあるパキスタン領のフンザは標高5千メートルに在り、「世界最後の桃源郷」とされる。当然ながら、難路が予想された。時差は中国側とは3時間、トータル12時間はかかる。

 中国を出国するのに、タシュクルガンの国境検問所では全員のパスポート、荷物検査が終わるまで1時間半がかかった。

 海抜が上昇するにつれ、体調を崩す仲間が増えたが、ほとんど同時にパキスタンとの国境を示す石碑が見えた。海抜は5,075メートルのクンジュラ峠だった。西安を出てから5,600キロ。

パキスタン国境
 (国境の石碑)

 「旅の道筋を地図上に描いたことで納得させられたのは、自分たちが触れた中国は全体のごく一部にすぎないこと、触れた人間も僅かな数に過ぎなかったこと、とすれば、自分たちが見たものだけを中国だと言っては間違うという認識だった」

 (土地はどこの国であれ、時間の経過とともにすら変貌をきたすもの、私が見たときのシルクロードと作者一行が見たシルクロードにも、大きな差異、相違がある。さらに言えば、シルクロードの旅の過程では、いわゆる中国人との接触はむしろ少なくなり、長い歴史のなかで混血してきた人々との接触が圧倒的多い)。

 パキスタンの第一検問所では兵士がパスポートを見ただけだった。

 そこからカラコルム(黒い岩との意味らしい)への道は落石の危険がつきまとった。一時間半ほどかかって第二検問所に到着。いわゆる「カラコルム・ハイウェイが完成するのは1978年になってからだが、完成までパキスタン陸軍と中国人民軍との共同工事は十数年を要し、その間、3千人以上が犠牲になった。

カラコルムハイウェイ
 (現在のカラコルム・ハイウェイ)

 ストスにある最終検問所に着いたのは午後5時半、敷地は広く、バス、トラック、普通自動車など、両国の車がひしめいていた。取り締まりの主要な目的は武器と麻薬の持ち込みだったこともあり、検問には一々長い時間がかかった。

 ただし、日本人の観光客と判るなり、あっという間に通過を許可され、ここまで一緒してきたガイドはもとよりウェイウェイともドライヴァーともきちんと別れの挨拶ができなくなった。なぜなら、ひしめくように並ぶトラックや自動車が警笛を鳴らし、自動車はちょっとした隙間に突っ込んでくる状態で、互いの姿があっという間に視界から消えてしまったからだ。

 思いもよらぬ別れになってしまったことに、子息は世話になっただけに激怒した。


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