ひとたびはポプラに臥す(総評)/宮本輝著

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「ひとたびはポプラに臥す」 (全六巻) 宮本輝著
講談社 2002年3月15日~4月15日 文庫化初版

総評

 本書は創りものの小説とは異なり、40日間という長期にわたるというだけでなく、過酷きわまりない旅の体験記であり、ノンフィクションであるため、作者に同伴して行動を共にしつつ、作者の気持ちにも添いつつ、作品世界のなかに知らぬまにどっぷり漬かってしまったことを、まず強調しておきたい。

 ただ、作者一行がこの旅を経験した1995年のシルクロードの状況と、私自身が経験した1980年の状況と、さらには現時点の状況とには、それぞれ相当の差異があることは否定できず、そのあたりを認識したうえで読まないと誤解や誤謬を招来しかねない。

 実は、私は宮本輝の作品にはバリ島にいたとき、初期の作品である「泥の河」「道頓堀河」「蛍川」の三作に出遭い、言葉による色彩感覚と匂いに関する表現のバランス能力に痺れ、いわゆる「はまった」状態になって、以後、続けて7冊ほど読んだのだが、デビュー三作を凌ぐ作品に出遭うことなく、私は宮本作品に見切りをつけた。

 むろん、作品に対する評価は読者により評者により様々であろうが、少なくとも私にとって、「泥の河」ほど秀逸で、心を奪われた作品はなく、この作品に比較すると、後の作品は文章がより巧みに、構成がより複雑になったという程度の印象しか持たなかった。

 つまり、ほとんど10年ぶりに同作者の著作を手にしたわけだが、本作品が宮本作品を見直させる機会を提供することとなった。

 本書には、宮本輝という作家の偽りのない本音が、いたるところで、さながら火山が噴火するように噴出し、そのどれもが人生の機微を見事に捉え、読む者の胸に音をたてて迫ってくるという点に醍醐味がある。

 作者は最終巻の終わりに近いところで、「やがて、旅のあいだじゅう自分につきまとった『虚しさ』の正体が見えてきた。カブール河がインダス河に合流した地点に至ったとき、私は自分という人間に絶えず『インチキ臭さ』を感じていたことに気づいた。そういう自分自身が虚しかったことに。極貧の村々が、砂漠が、砂嵐が、蜃気楼が、オアシスの民が、カラコルムの峰々が、これでもかこれでもかと、私のインチキ臭さを白日の下にさらし続けていたのだ。」と、胸のうちを大胆に披瀝するが、自省の気持ちを充分に示しつつも、決して自虐的に感じられない点に男らしい爽やかさがある。

 ここまで自身の本音に踏み込んで、赤裸々に、世の中に対し、胸のうちを披瀝できる作家はそうはいない。

 「あとがき」には、「この紀行文は旅から帰国して4年がかかった」と記し、「井上靖が西域物語の序章で、中国人は自国の西方に拡がっている未知の異民族が国を樹(た)てている地帯をなにもかもひっくるめて『西域』と呼んだ。この西域という言葉には、もともと未知、夢、謎、冒険、そういったものが詰まっていると書いているが、過酷で、ときに命まで賭すような旅を体験したことにより、序章の真意が肌で理解できるような気がしてきた」と、正直な気持ちを語っている。

 「旅のなかで目にした多くの景色、場面、光景、接した人々が、数十万の画像となって私のなかに潜りこんでいたことを思い知った。帰国し、落ち着くにつれ、渦中にいたときには見えなかったものが歳月の経過に伴い、段々に見えてきたと言い換えてもいい」。

 「あの人々は、雄大な呵責のない大地で、文明の十字路で、民族の交差点で、近代文明という檻のなかの我々よりも、はるかに美しく澄んだ瞳をもって懸命に生きているだろう」と、最終章を締めくくっている。

 私はこの六巻におよぶ大作に触れることで、宮本輝という作家に信頼感をもっただけでなく、強く魅かれるものを感じた。「ひとたびはポプラに臥す」に触れ得たことを感謝したい。

サマルカンド

(サマルカンド/作者一行は訪れていない)


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