アメリカの終わり/フランシス・フクヤマ著

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

「アメリカの終わり」 フランシス・フクヤマ著 (1952年シカゴ生)
会田弘継訳  原題:America at the crossroads
講談社 2006年11月初版 単行本

タイトルは出版社が意図的にセンセーショナルな意味合いをもたせた姑息が窺え、実際のタイトルは上記したように、直訳すれば「十字路に立つアメリカ」、意訳すれば「岐路に立つアメリカ」といった意味で、なにも「アメリカの終焉」を意味しているわけではない。どうして、このような誤解を招くタイトルをつけて平然としていられるのか、編集者の醜悪な意図を感じる。こういうのは企業の産地偽装と同じレベルのことで、きわめて不快であることを、まず披瀝しておく。

作者は「ネオコン」(新保守主義)として名のある学者であり、論客であるが、戦後の一連のアメリカの外交政策、ことに力による外交を含め、その効果と成果と失敗について、思うところを忌憚なく披瀝している。

政治、外交、戦略を論ずる上で、遠くギリシャの哲学者、ソクラテス、プラトン、アリストテレスから、中世の二ーチェ、近代のハイデッカーなどの哲学にまでおよんでの論述には驚いた。私の知る限り、これまでギリシャ哲学やローマ帝国を語るのは西欧人であり、アメリカ人ではなかったからだ。

「体制の転換」(レジームチェンジ)こそが脅威を払拭する道であるとの考えは、ソ連邦崩壊後、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキア、ルーマニア、バルト三国、東ドイツなどが自由民主主義国家へと転換したことによって正当化され、これが中近東においても有効だとの短絡に走ったことがイラク戦争を失敗に帰せしめた、そもそもの発端だったとの意見には全く同感。

さらに、EUが東欧諸国をEUに参加させることに同意、支援を表明したことは、逆にEUの招来に暗雲が垂れ込めたことを暗示していると私は観ている。

歴史的に見て、アメリカが対外拡張を目的に行った先での統治政策に関し優れた才能を示した人物は存在しないと、作者は至って謙虚である。「例外があるとすれば、ダグラス・マッカーサーぐらいだろう」というのは日本駐留時代の政策を指しているのだろうが、大都市へ容赦のない絨毯爆撃を敢行し、原爆を二つも落とし、数百万人を殺した上でなら、 なにもマッカーサーでなくとも、日本人を屈服させ、日本に民主国家に育てるうえで失敗する人間はいないだろう。

当時の日本人は未曾有の爆撃を受け、飢餓に瀕し、疲弊し、恐慌状態にいたのだから、駐留してくるアメリカ人の指示や命令には素直に従うしかなったし、駐留する兵士が日本女性を暗闇や野原に連れこんで強姦や輪姦におよんだ事実を知っていても、抗議する気力すらなかった。マッカーサーが評価されるとしたら、日本中が死んだ人間の遺体処理を火葬一本に絞ったこと、シラミだらけだった日本人すべてに頭からDDTを振りかけてシラミを退治してくれたこと、西表島の川にマラリアを媒介する蚊の子供、ボウフラがいたのを上から油を流し、呼吸できなくさせて皆殺しにしてくれたことくらいであろう。

1991年の湾岸戦争での米兵の死者は200人以下。クリントン政権時代のハイチ、ボスニアでの小規模介入は1999年のコソボ紛争で頂点に達したが、米兵の死者はゼロだった。ラムズフェルド長官は最小限の軍隊構成でイラクを侵攻し、新しい戦争の実効性を示したかったのであろう。軍事技術の向上が安上がりで戦争できるという幻想を生み出したのも事実。市民のあいだに隠れつつの、長期にわたるゲリラ武装蜂起をラムズフェルドは予測していなかった。

民主化はエストニア、ウクライナにまで広がり、体制の転換という概念が国際関係の一つの考え方として有効であることを一層証明した。しかし、結果として、この途轍もない形で証明されたことが、その後の10年間、多くのネオコンに誤った道を歩ませることになった。各国がソ連邦離れを起こし、ゴルバチョフもこれを自由にさせ、戦争を起こさせなかったこと自体が一種の奇跡であり、きわめて例外的であるとの認識に至らなかった。

(東欧と中近東では、人間も、宗教も、文化も、土地も、気候も、嗜好も、思想も違う)。

本書は近代化に関する論議である。普遍的に存在するのは自由民主主義への希求というより、技術が発展し、高い生活水準、高い医療水準制度をもち、広い世界と往き来できる近代的社会に生きたいという欲求であって、自由民主主義であるか否かに注目してのことではない。

経済が近代化すれば中産階級が生まれ、教育水準が上がり、個人が個人として迎えられ、認められる社会が生まれる。が、不測の事態、指導者の質、固有の思想や宗教感覚がときとして複雑な役割を果たすため大きな混乱は、頻繁にとまでは言わないが、起こり得るものだ。民主化の感染は社会を一定のレベルまで変えるに留まる。一定の構造的な条件を満たさなければ、政情不安と後退が遅かれ早かれやって来る。現に、アメリカ社会には落差の大きい格差社会が形成されつつある。

ハイチ、カンボジア、べラルーシュでは新たな民主主義体制は確立しなかった。モルドバやウクライナは腐敗で揺らいだ。ベネズエラ、ボリビア、エクアドル、ペルーではいったん確立した民主主義が後退し、アルゼンチンでは自由化へと改革を進めたところで2001年には深刻な経済危機に遭遇した。プーチンのロシアでは、エリツィン時代の自由主義的な改革の多くを後退させる動きをみせ、独裁強権的な色彩を強め逆戻りをしている。多くのアフリカ諸国での民主化の動きは束の間の実験に終わり、貧困状態に変化は起こっていない。

9・11を経験し、アメリカ人の多くが破局的なテロが起き得るし、野蛮な動きが強まると思い込んだが、ヨーロッパ人はアイルランド共和軍(IRA)によるテロと同じようなもので、単に「うまく行き過ぎたテロ」といった程度にしか思わなかった。

過激イスラムが持つ人を動かす力を見くびるのは世俗主義者の驕りである。過激イスラムは反米主義、反西洋主義、反近代主義において従来我々が知っているものよりかなり狂信的であり、融和不可能な存在である。

10億人以上の信者を抱える尊い宗教に基盤をもつという利点があり、信者のなかからいつでも兵士を募ることができる。イスラム主義が宗教的アイデンティティを強化し、宗教的な憎悪に火をつける力を持っているのは確かである。

テロの脅威については判らないことが多くある。中核的な聖戦主義者がどのくらいの人数で存在するのか、将来の戦士たちがどこから現れるのか、支援者となる可能性をもつ人々に対し、どのあたりで見切りをつけ、どのような飴と鞭を政策として用い、抑止の利かない中核グループと支援者になり得る人たちを切り離せばよいのか、見当すらつかずにいる。ゲリラが一般市民にまぎれて存在するケースでは、アメリカの軍事力はその威力も効果も希薄にされてしまう。

国家の切迫した脅威に対し、合法的に先制攻撃ができるという考えはイラク戦争後、国連のハイレベル委員会で支持された。ブッシュ政権ドクトリンの問題点は先制攻撃の定義を拡大して切迫していない脅威に対する予防戦争を含めることを正当化したことだ。アメリカが直面している危険について、事前に、政府が誤認していない必要がある。後日、判明したように、イラクからの脅威、核テロ全般の脅威を過大評価していたことが判明している。結果として、予測を大きく超えた膨大な費用がかかり、多くの人命を失い、リスクを世界的に増大した。

(その上、ロシアにもチェチェンへの過剰な侵略の言い訳を与え、中国にもチベットへの侵入を黙認する形になった)。

予防戦争は核拡散に対応する中心的な手段となり得たかという疑問。現実に、イラク以後、北朝鮮もイランも核開発計画を放棄したり、もっている核兵器を棄てたりはしていない。むしろ、核兵器所有はアメリカの攻撃に対する強力な抑止になると踏んで計画を推進している。しかも、爆弾攻撃を避けるために、それら重要拠点はすべて地下に隠している。

イラク戦以後、ヨーロッパとの亀裂が生じた。有志連合に同意した三国、イギリス、スペイン、イタリアで大規模な反戦デモが起こった。反米主義の萌芽といっていい。「アメリカは例外的な国家である」との思考はアメリカ人一般に根強い自己認識になっている。「国際システムの番人」「善意による覇権」などの言葉に酔って。

このアメリカの傲慢がヨーロッパの有志連合のみならず、世界中に反米主義精神を招来してしまった。かねて対米友好国であったヨルダンでは今や好感情層はわずかに5%、パキスタンで21%、モロッコで27%、トルコで30%にまで低下している。

政権の転換を成功裏に導くためには、政治と経済の両面での補完、人材の育成のための教育、各制度の確立などが要求される。ただ、専制君主を殺害し、軍隊を壊滅させるだけでは、目的は達成できない。国によっては人口問題も抱えているし、男女の社会的格差のひどい状態が常識として長期間継続している国もある。それぞれの土地の文化、風習、習慣への配慮なくして、アメリカの価値感を押し付けるだけでは、アメリカを敬う国はないだろう。アメリカは今や岐路に立っている。

以上が、本書の骨子だが、この作者は日本人の血をもちながら、やはりアメリカ生まれのアメリカ人なのだと認識した。文明の異なる国への理解が一般のアメリカ人に欠落しているのと同じ精神状態がこの作者にもある。

たとえば、日本で自由民主主義の社会体制が成功した例を挙げているが、太平洋戦争で、悲惨な敗北を経験してはじめて手に入れ、かつそうした社会体制に馴染むまでそれなりの年数が必要だったように、民主主義と無縁に過ごしてきた国の社会体制を暴力的に、かつ強制的に推進しても、そう簡単に民主主義が根づくものではないことを知るべきだ。そのうえ、日本には宗教的な確執がなく、なんでも受け容れるという柔軟性があり、朝鮮戦争がたまたま起こったおかげで、軍需産業が復活し、警察予備隊との名で、軍隊も復活し、経済的に思わぬ利得が発生したため、日本人全般が潤うという結果を招来した。幸運という以外にない。

さらに、日本人の他国人にない特質というものがある。それは、他人に対してなした悪業もすぐ忘れるが、アメリカが日本に対して行なった無差別絨毯爆撃や、ニつも落とした原子爆弾についても忘れ、落としたアメリカと安保まで結んで戦後ずっとパートナーでいられるという神経である。

とはいえ、現在の日本人だって、アメリカ人が「デモクラシー」というものを理解しているようには理解していない。作者は「制度という媒介変数」という言葉を使って、さまざまな制度を改革しなければいけないが、それこそが非常な困難を伴うのだと認識し、かつ言明している。それぞれの土地にそれぞれ固有の風習もあれば、伝統もあり、癖もある。アメリカの「善」が必ずしも、世界の「善」とイコールではないことに気づいただけでも、アメリカは幾らかは成長したのかも知れないが、イラク侵攻後の今、アメリカ人一般がイラクへの派兵を肯んじようとしないのは、アメリカ兵が死ぬのを忌避しているだけで、中近東の土地におけるアメリカ人とは異なる価値感を理解したからではない。

アメリカ人くらい、外国を知らない国民は少ない。自分が生まれた州から外に出たことがないという人はごまんと存在する。

いま、アメリカ軍隊は新兵を募集しているが、応募者のほとんどは外国人だという。アメリカ国籍が欲しいあまりの苦肉の策であり、兵として使用に耐えるまで訓練期間が必要になることに問題を残している。

もっとも、かつてアフリカを植民地とした西欧諸国が戦後、開発に協力、30年以上にわたって膨大な支援、助言を行なったが、大半の地域で所得は減少している。本ブログ(同年同月)で曽野綾子が書いた「貧困の光景」でも紹介した通り、もともと脆弱だったアフリカ諸国はさらに弱体化している。ソマリア、リベリア、シエラレオネなどでは国家機構が消滅してしまっている。

私には、かれらには国というものを建設し、為政し、発展させるだけの能力が欠落しているようにしか思えない。

貧困にむしばまれる国は、強欲な指導者、賄賂の横行、民族間の紛争、収拾のつかぬ内戦、人材の払底、国民全体の無知などによる。援助を直接それを必要とする人々に届ければ、援助が効果的だったことを知ることはできるが、そのことはその国の政府機能を破壊し、麻痺させもする。庶民が自国の為政者に背を向けはじめるからだ。アフガニスタンですら、アメリカの軍事介入によってアルカイダを追い出し、新しい政権作りに協力し、一見成功したかに見えたものの、未だにアルカイダによるゲリラ戦は行なわれているし、新大統領も、必ずしもアメリカの言いなりにはなっていない。

「国際連合は不要だ」というアメリカの考え方には一定の理解を示したい。第二次大戦の戦勝国がつくったのが国際連合であり、ロシア、中国などというアメリカ以上に政治的にも経済的にも、環境問題に対しても質の悪い国にすら拒否権をもたせた組織などは現時点での世界の状況に合致していない。作者は「有志連合」を多目的に存在させるのもアイディアの一つではないかと提案する。食料問題、遺伝子組み換えの安全性、環境問題、IT問題、著作権問題、人権問題などなどを重層的につくることで、迅速な対応をしようとの考えらしい。

アメリカ国内に貧富の差が拡大している。「僅かな富者と多くの貧者」という言葉はアメリカ社会のためにあるようなものであり、他国におせっかいをやくまえに、自国の内情に目を向けるべきではないか。


前後の記事

現在はコメントを受け付けておりません。

サブコンテンツ