アンジェラの祈り/フランク・マコート著

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アンジェラの祈り

「アンジェラの祈り」 フランク・マコート著
土屋政雄訳  新潮クレストブック 単行本
2003年11月初版  ¥2,800

 

 前作「アンジェラの灰」は伝記部門のピュ-リツァ賞を受賞、ベストセラーとなり、映画化もされ、この映画には移民社会である米国全体が慟哭したと聞いた。

 私は前作を読んではいないが、数年前にそれを原作とした映画を見る機会があり、アイルランド人ファミリーが貧窮に喘ぐあまり、アメリカに移民を敢行するものの、子供を数人つくっただけで、定着に失敗、惨めな帰国を果たすという内容だった。(アイルランド人が貧しかった最大の理由はイギリスによる侵害と搾取)。

 その映画を説明する。

 帰国後、父親はイギリスに出稼ぎに行くも、連日呑んだくれて仕送りはおろか、音信不通、母子は遺棄されたも同然の事態に陥る。 母親は選択の余地もなく、子供を同伴、いとこの男性の家の1階に間借りりすることで雨露を凌ぐが、男の求めに応じて、子供が寝たのをみはからっては夜毎2階に足音をしのばせて上がっていき、いとこに身体を提供することで家賃代わりとしたかに思えたが、実際にはみずから好んでそうした可能性もある。

 そのことが長男に見つかって、頬にビンタされる場面が痛々しい。

 かれらが居住したのはアイルランドでも貧窮者の多い片田舎、リムリックという土地で、居住者はほとんどカトリック教徒。 母親は自治体や教会が生活困窮者に供与するものにすがって、その日その日の糧とするほどの貧困にあえぐ。

 2階に置いてあるバケツがいわば男のトイレであり、男はそこにしゃがみこんで大小便をする。同様に、1階にも同じバケツがあり、母子はそこで同じことをし、場合によっては体液もそこに流し、いっぱいになると、窓から小雨の降る路上に向かって、バケツを逆さにして汚物を投げ棄てる。それもアンジェラの仕事。

(かつて、西欧ではどこも同じだったとは聞いている)。

 著者(長男)はハイティーンになると、みずから自転車を駆って電報の配達を行い、金を貯める。アメリカへの再度の移民を心に秘めているからだ。あるとき、いつも電報を配っている受け取り人が椅子にすわったまま死んでいる場面に遭遇、主人公の少年は死人のポケットから有り金を盗む。

 フィルムが白黒だったか天然色だったかは忘れたが、脳裏に残る風景も場面もすべてモノトーンの暗いイメージ。映像に対する私の記憶は陰鬱、悲惨であり、とはいえ、そうした映画が西欧には多く、アメリカ映画とは大きく一線を画していて、私個人はその暗鬱さが非常に印象的で、エンディングまで痺れっぱなし、本書を書店で見た瞬間、完結編であることを了解、入手した。

 ところが、フィルムから得た印象と、本書(566ページにおよぶ分厚い書籍)の執筆が奔放に描き出す「移民リベンジ物語」は私の想定とはあまりに異なることに仰天、唖然、呆然といった印象で、読み継ぐべきか否か、迷ったりもした。

 第二次世界大戦後、19歳になった著者が、一人でアメリカ移民への再チャレンジをし、なんとか一人前になり、結婚し、三人の兄弟を、ついには母をアメリカに呼ぶという過程を描いていく姿勢と前作の映画とに、イメージ的にだが、あまりに大きなギャップが存在し、正直いって、期待とは裏腹で、はじめは戸惑い、落胆もし、同じ著者の作品とは到底思えなかった。

 もっといえば、主人公があまりに快活、明朗であり、むろん東洋人とは異なり、アイルランド人はあくまでコーカソイドであり、コーカソイドとしては最下位に置かれたとはいえ、英語も、たとえ訛りがあるにせよ、意思の疎通に難渋はしない。そこに、主人公の一応の成功があったのだと思われるが、それにしても、映画で見せてくれたアイルランド独特の陰鬱なイメージのかけらもなく、冗談の過剰な、自信に満ちたアイリッシュの男性が高校教師になっていく過程には裏切られた印象すらある。

 本書には登場人物が多く、それぞれが常に同じネーミングで語られず、あるときはファミリーネーム、あるときはファーストネームという具合に紹介されるから、よほど記憶力のよい人でないと混乱する。翻訳物にそうした相似性があることは否めない。

 私が読書を途中でやめなかったのは、読む姿勢を変えたからで、言い換えれば前作をベースとした陰惨きわまりない映画の場面を脳裏からいったん消し、本書を一冊の書籍として読むことに徹してみた。

 そう視座を決めて読み進めば、この著者でなければ出てこないような奇抜な話や人物が登場し、主人公が取り巻かれているニューヨークという大都会の様相が映し出され、分厚いながらも最後まで飽きなかった。と同時に、移民に成功した鍵は主人公の何事にも屈しない、明朗闊達さにあったのだということにも思い至った。

 文体がほとんど会話調で進むのも近頃珍しい。移民者がニューヨークで出遭う過酷も、幸福も、この人の筆にかかると、すべてが色調を変えてしまうところが著者の個性というものだろう。まるで、私の知っているイタリア系アメリカ人の冗談やユーモアを耳にしているような気分だった。

 アメリカ人の他国の人間を蔑む言葉として、日本人を「ジャップ」とか「イエロー・ジャップ」とか呼ぶことは知っていたが、、韓国人を「グック」、中国人を「チンク」、イタリア人を「ギニー」、ドイツ人を「クラウト」、ポーランド人を「ポーラック」と呼ぶなどは知らなかった。一方、日本人はかつて白人(コーカサイド)を「毛唐」といって蔑んだ。古くは、「南蛮人」、「夷荻」という言葉もあり、これらの侮辱語はすべて放送禁止用語となっている。

 時代が変わったとはいえ、アメリカに居住する日本人はいまだにアングロサクソンの支配する社会で、それなりに苦労して生活しているし、一方でプエルトリコ人やメキシコ人移民を小ばかにしながら、生きている。マンハッタンから橋一つで結ばれたクイーンズにも友人夫妻が住んで、日本から薬剤を輸入して販売しつつ生活しているが、「いつ、わたしの身体がハドソン川に浮かんでるかわからないよ」と電話で耳にした言葉が忘れられない。 東洋人がアメリカで生活することは、それはそれで日本で暮らすわれわれには想像を絶する労苦があるのに違いない。そのうえ、時代とともに、米国に居住する移民の種類は増え、ことにカリブ海にある小国や中南米からの移民が増え、人の容貌も私のかつて知っていた米国人とは単純比較はできない。

 「世界中で問題を起こすのは『・・・イズム』であり、それを唱える人間だ」という説には同意。

 英語に「Cute」という言葉があり、普通「可愛い」というイメージだが、アイルランドでは「ずる賢くて、油断ならないこと」を意味するという。同じ英語でも、アメリカ英語とイギリス英語、そして、サッカーのベッカム夫妻がしゃべるコニーズイングリッシュもちょっと違う。ブレア首相の話す品格のある英語とは雲泥の差がある。また、アメリカ一般からバカにされているブッシュの英語は、日本人には発音がはっきりしているぶん、ブレア首相と同様、判りやすい。英語のヒアリングには大抵の日本人が苦労するが、英語の勉強をする人なら、せめてブレア首相とブッシュ大統領の英語くらいは聞き取れるよう努力するといい。ただし、ブッシュの英語は文法的にも言葉の選択にも時折誤りを犯すことは知っておいたほうがいいだろう。

 とにかく、この著者は快活、明朗、ユーモアに溢れており、アメリカにしっかり根をおろした感が強い。ただ、内容的に、これだけのぺージ数が必要だったのか、訳者にこれだけの翻訳苦労をさせる必然性があったのか、これだけの価格設定が妥当だったのか、といった疑問は残った。


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