エミシとは何か/中西進編

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「エミシとは何か」  中西進編
角川選書  1993年11月初版
副題:日本文化の起源を北に探る

 

 本書は8人の学者が書いたもの、講演したもの、などを上記作者が監修し、まとめたもので、ここでいう「エミシ」とは「東北地方に居住していたアイヌに近い民族のこと」であり、内容は学術的であり過ぎ、衝撃的なものがあるわけではなく、急いで読みたくなるようなものでもない。

 内容から、これはと思った点を列挙する。(  )内は私の意見:

1.かつて大和朝廷から野蛮人とされ服従を余儀なくされたのは蝦夷(エミシ)だが、九州の熊襲(くまそ)、隼人(はやと/薩摩人)、肥人(熊本)、亜弥人(奄美大島)も同類だった。

2.「日本海」という命名は1744-1748年のあいだの成立で、江戸時代中期に、山村才助という学者による。また、ロシアのシュテルンは1805年に長崎に来航し、帰国したが、その「世界就航記」には「日本海」という海の名が明記されている。

3.現在の北朝鮮と中国の一部をまたぐ土地に「渤海」という国があり、727年に第一回の使節が大和朝廷を訪問、200年間に35回来日している。

4.779年には渤海を含め、難民が増大、日本海側の出羽、越前、能代などに漂着し、その後越中にも、陸奥にも、北海道にも在住した。能代のことは「のしろ」ではなく、現地の人間は「ぬしろ」と呼び、オ段がウ段に変化する沖縄と相似の関係がうかがえる。(異論あり。だったら、「ぬしろ」ではなく、「ぬしる」になるべきではないか)。

5.当時の日本は二重構造、エミシは混ざり合いのごく初期の段階にある人たち。

6.日本の最古の骨は沖縄から出土した港川人で、1万8千年前の氷河期に生存した人間。

7.2万年前の氷河期は東シナ海、南シナ海など大陸棚が浅いために干上がり、日本列島は大陸の一部になっていた。その時代に、人や動植物の移動があった。むろん、シベリア南部からアラスカへ、アメリカインディアンやイヌイットと結ばれる人たちの祖先が渡っていった。(モンゴロイドの移動)

8.弥生時代の日本への渡航者は中国東北部、シベリア南部、バイカル湖周辺から主として朝鮮半島を経由して入ってきた。縄文時代には、東南アジア系統の人々が入ってきている。現在の日本人のタイプには二つのタイプがあり、一つは東北アジア系で、顔が全体として面長、眉毛が薄く、目が細く、一重であり、いわゆるキツネ目、上顎が下のほうに降りている傾向がある。唇は薄く、耳たぶの発達が悪い。一方、南東アジア系は顔全体が丸く、眉が濃く、体毛が多い。目が二重で大きく、鼻の幅がやや広く、唇が厚く、耳たぶが発達している。(後者は沖縄県人に多くみられる相)

9.縄文時代には東南アジア系の人が日本列島全体に住んでいたが、弥生時代に北部九州、山口県の一部に東北アジア系が渡来し、居住区をしだいに拡大、古墳時代には九州全域から、四国、山陽、近畿地方にまで人口増加に伴って拡大。

10.アイヌも私たちもルーツは同じ。東北人とアイヌ人の差よりは近畿人と東北人との差の方が大きい。

11.稲作発祥の地は中国の江南地方、中国南部地方、インド、東南アジア、あるいは中国領の雲南あたりではないかと考えられる。

12.中国産をインディカ、日本産をジャポニカ、東南アジア産をジャワニカと区別されはしたが、形状的には差はわずかで、識別は困難。

13.日本へは紀元前300-100年の頃、中国から山東半島にわたり遼東半島から南下し、日本に到達した。その後、稲作は南九州はもとより、日本海側の東北地方に拡大していく。当時の気候は山形が最も暑い土地だった。

14.津軽平野でも水田の遺跡が発見されているが、弥生文化に伴うはずの鉄器、青銅器、土器の壷、高杯の類が発見されておらず、不思議な現象。

15.いったん東北地方に広がった稲作も、途中で消失し、縄文的な狩猟文化に戻ってしまった。原因としては、気候変動が考えられる。

16.日本で初めての本格的な寺は法興寺で、飛鳥時代、高句麗式に建立されている。高句麗の専門家が助力したことは確実で、この当時、大和朝廷は百済よりも高句麗との関係を重視した感がある。

17.聖徳太子の親戚のなかに高句麗人がいたことは確か。

18.アイヌは北カナダ、アラスカインディアンと交流があった。岩手県に出土した鼻の曲がった土偶は北米のイロコイ族やアラスカのイヌイット人のなかにも存在する。

19.718年、764年にはエミシによる反乱があり、朝廷は軍隊を送った。

20・沿海州、アムール川流域、サハリン一帯にエミシが入っていたと思われる。ウラジオストックの博物館に展示された器具などはアイヌのものと同じ。

21.806年、桓武天皇が征夷大将軍に任じた坂上田村麻呂による東北エミシ征伐により、東北一帯の経略はほぼ終わっていた。屯田兵を一定の人間の中に混ぜて開発にあたらせ、人間的接触によって帰属意識を高めさせる手法が採られた。

22.877-85に、多くの地で大規模な反乱があり、同じ時期に平将門が乱を起こしたのは、明らかにエミシの反乱と呼応したもの。

23.奥州、平泉を拠点に頭角を現した奥州藤原氏はその経済的、物質的な基盤を金、馬、絹においていた。749年の奈良の大仏を金で鍍金(めっき)するのに、藤原氏は平泉から金粉を贈っている。

24.当時の日本の貿易は、入ってくるものは獣の皮、人参、蜂蜜などで、日本から出ていくものは絹、高級繊維、水銀、金、びんろうの扇など。

25.血液型遺伝子で調べると、現代の津軽半島の人と道南のアイヌが非常に近い。指の掌紋を比較しても、同じことがいえる。

26.北海道では、縄文式時代のあと、「続縄文」という時代が続く。内地の、同じ時期、弥生から古墳時代に相当する。

27.国家神道は大和朝廷を庇護するために持ち込まれた。

28.朝鮮半島南部と北九州とは同一文化圏の時期が相当長くあり、人の交流もある。また、双方の体の特徴も近似している。(ヤーさん的なキャラの人物が多いのもよく似ている)。

 アイヌとエミシとの識別をもっと解りやすく、説明すべきだった。


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