オドオドの頃を過ぎても/阿川佐和子著

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オドオドの頃を過ぎても

「オドオドの頃を過ぎても」
阿川佐和子(1953年生)著
新潮文庫  2006年12月初版

 

 初めの百数十ページは本の書評に費やされ、途中から対談を挿入、最後は日記風な著述とエッセイで終わっている。したがって、書評の部分は該当する本を読んでいないと、内容把握に若干の苦労が伴う。

 タイトルの「オドオド」は、自分は小さい頃からオドオドしていて、ときにそういう自分を隠すために強気を装うことがしばしばあったし、そうした姿勢はかなり長い期間にわたって続いたという。

 本人は若い頃から読書が大嫌いだったらしいが、さすがに阿川弘之の娘、「ウメ子」という小説を書いて、岡崎市から賞を貰い、坪田譲治文学賞にも輝いている。

 佐和子の「佐」は「助ける」という意味があり、だから「佐和子とは平和を支援する」との意味だと知己から知らされ、嫌いだった自分の名前に自信がもてるようになったらしい。私が咄嗟に思いついたのは「さわこ」は英語の「Sour」つまり「酸っぱい」に通じ、TVでの発言にはそういう印象がある。

 「一人暮らしは我儘と怠惰を際限なく助長する」と言いつつ、女性は一人で料理をつくり、毎朝コーヒーの香を愉しみ、後片付けもする」と仰るっているが、確かに、男だと料理すらせず、近くのコンビニで握り飯を買い、缶コーヒーを買ってすませる人が多い。

 対談のなかで「陰陰滅滅」とか、「不逞の輩」とかいう言葉には、久しぶりにぶつかり、懐かしく思えたし、遠藤周作のイメージが本書によってがらりと変えられた。

 本書にあるように、「愚妻を英語に直訳すれば、This is my foolish wife とか、Stupid wife などと日本人間での紹介をそのまま外国人に言ったら、おかしなことになるのは当然というより、このような紹介そのものが世界的にあり得ないのではなかろうか。尤も、「愚妻」という言葉を使った紹介そのものが日本でも現今あまり聞かれなくなっている。近々、死語になる運命。

 父親が作家である関係で、知己の幅が広く、著述は素直で、直截的で、内容も面白い。


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