カンボジアの24色のクレヨン/柳原和子著

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「カンボジアの24色のクレヨン」 柳原和子著
晶文社刊 単行本 ¥2,500

 
 この書評をどう書くべきかずいぶん迷った。

 が、迷いに迷ったあげく、本音をぶつけることに決意した。

 筆者はフリーライター(1950生)、ボランティアでカンボジア、アオダイタンに入り、難民救済にあたっていて、本書、主人公のチョムリスに出遭う。彼からもらったクレヨン書きの、手許に残った画集が著者の心を捉え続け、本書に結実したというのが上梓までの経緯である。

 「24色のクレヨン画」という、これ以上にない、最高のタイトルを得ながら、その幸運が本文に生かされていないというのが読み手としての第一印象。

 クレヨンによる絵の、本書に挿入された位置も、コストにこだわりすぎていることが伝わってきて、折角の一書をだいなしにしている。そんなものは構成の再編、写真の配置を再考することによって、コスト以上のものが回収できるだろうに。たぶん、構成と写真の配置次第で、内容がレベルアップし、売れ行きは飛躍的に伸びたであろう。

 どんなに美しい文章も、写真も、クレヨンで心をこめた子供の絵画には、人の心を掴む上では敵わない。

 本書の主人公はあくまで、カンボジアのチョムリス、あるいは弟のチョミディであって、著者ではない。

 本書を構成するなら、クレヨン画を中軸に配慮すべきで、できることなら、事前に、チョムリスに10枚、20枚の体験画を、たとえそれが残酷であれ、悲惨であれ、平和な黄昏であれ、いや「赤い土」であれ「ほこりっぱい道」であれ「熱い風の通る獣道」でもいい、それら1枚、1枚を、適切に配置しつつ、チュムリスの語りを多くすることで、よけいな著者の語りを減らせなかったのか、読み手としての不満がある。

 日本人が報道から得られる常識的な感慨や感想などを書籍から得たくはない。知りたいのは、辛酸を舐めつくして生きてきた主人公、チュムリスの声である。

 「原稿を書こうという自己顕示欲」が強すぎて、クレヨンによる絵画のもつインパクトを過小評価したか、軽視したとしか思えない。著者の本書への執筆の動機となった「クレヨン画への執着」は理解できるだけでなく、正しい選択であり、著者はあくまで陰の存在になりきって、著者が語った部分をできるなら5分の1に、せめて4分の1にしていたら、本書はもっと成功していたのではないかと思量する。

 なぜなら、まず、チュムリスの描く絵がしっかりしていること、人の心に訴えるものがあること、これを前面に押し出さぬ法はないという確信が私にあるからで、当時の政権、舞台裏などに言及する必要はなく、それらのほとんどは多くのジャーナリストによって報道され補完されている。

 ヒューマニズムについても著者が語る必然性はないし、チュムリスの絵がそれとなく語るべきもので、著者のよけいな説明は不要という以上に、邪魔というしかない。流れを阻害しているだけで、せっかくのタイトルが哭いている。

 著者は「千載一遇のチャンス」を100%生かしきれなかったとしかいいようがない。

 戦後の、闇物資の流れ、かつぎ屋の暗躍、利潤のかすめとり、強姦の話などなど、戦後の情景としてはありふれすぎていて、心に伝わってこない。

 人間は間違いを犯す動物、長い歴史がそのことを証明している。カンボジア、ベトナム、タイで起こった殺し合いも、ミャンマー現政権の横暴も、世界の歴史上にある殺し合いや非道の一部にすぎない。 それをライターとしての著者が書いては、まるでニュース・リリースである。 チュムリスに書かせるから、インパクトが10倍にも100倍にもなる。

 著者としては、最後の一節「カンボジアよさよなら」で終わって、それで十分だったのではないか。

 厳しい書評になったかもしれない。書評はやめとくべきだったかも知れない。しかし、私が書評を決意した裏には、この著者の「負けず嫌いな」感性に期待するものがあると直観したからである。


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