ジャンケン文明論/李御寧著

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ジャンケン文明論

「ジャンケン文明論」  李御寧(イー・オリョン/1934年生/韓国人)著
2005年4月20日  新潮社より新書化初版  ¥720+税

 著者は1934年ソウル市生まれ、梨花女子大名誉教授を経、現在、中央日報社常任顧問。

 

 作者にとって日本語が外国語だったのかどうかがはっきりしない。外国語だったとしたら、大変な勉強をしたのだろうと思うし、日本で育ったとしたら、文章に説得力が欠落しているし、欠点も少なくない。名前に英字で「Lee O Young」と書いてあるのに、なぜ「リー・オリョン」になるのかも判らない。

 また、肝心のジャンケン文明のことだが、ジャンケンがアジアにおいて一般的なのか、日中韓において一般的なのか、日本人に歌舞伎や能を見たことがなくてもジャンケンをしたことのない人はいないところから、日本人の原点を感じたという外国人の話はよく解るが、中国や韓国と日本がジャンケンに関し、どう違うのかが今一つ解らない。

 ジャンケンは日本のように三者が三すくみになって、それぞれが勝つ相手と負ける相手とを持つという、いわば相互関係を重視するものになっているのに比べ、西欧での決着は大抵はコインを投げることで即決するが、これを「二項対立」とも「二者択一」ともいい、柔軟性の面で、ジャンケンに及ばないというのが著者の主張。なぜなら、参加者が気をあわせ、同時に手を出さないと成立しない側面があり、その意味で、作者は「ダイアローグによる本当の人間のコミュ二ケーション行為はジャンケン・モデル以外にはない」と言う。

 (ジャンケンは参加者全員が同時に三つのうちの一つを出すことが前提であり、誰もがそのルールに従っていることを疑っていない)。

 ジャンケンのほかに「数拳」というのがあり、片手の5本の指を全部使って行なうらしいが、「これならトルコにも、ドイツにも、英語圏にも、韓国にも、中国にもジャンケンを著す言葉はあるが」と言いつつ、起源についての明言を避けていることに歯がゆさを感ずる。ギリシャにもローマにも「ミカレ」と呼ぶ「数拳」があったとの言及もあるが、読者を迷子にさせるだけの効果しかなく、語源説に関しては一貫して苛々させられた。

 したがって、ジャンケン文明とはいい条、「それはアジアである」というべきなのか、「日本である」といっていいのか不分明のまま、読み進めることとなった。

 ただ、作者は中国の宋の時代の史書「五大史」に「手勢令」とあり、これは5本の指を使う数拳で、ジャンケンの起源である可能性を示唆しているが、語源らしきテーマには飛び飛びに触れるため、余計に判りにくい。

 打つ、切る、包む、といった三つの異質の力関係によって勝負が循環する三という数字は中国の「天地人」の三才を基礎にしているのではないかといい、日本人は三位一体と言うように、物事や事象を三つに分けることを好む傾向があり、「政、財、官」もその一つだとの指摘は当を得ている。

 「ジャンケンポンか、ジャンケンポイが一般的だが、日本全国の地方の方言をすべて集めると、何千という言葉がある」らしく、たとえば、長野のある村では「チッチポイ・チッチッパ」とか、「チンダラ・ホイ、セッセッセ」と言う。 

 (千葉の田舎では「チーケッター」、静岡の田舎では「チーリッコイ」、沖縄では「ジャンケン」を「ジャイケン」と呼ぶ)。

 ここで、作者は唐突に、「日本人ほど『手』という字を多様に使う民族はいない」という話をする。書簡を日本では一般的に「手紙」というが、中国で「手紙」といったら「トイレットペーパー」のことで、別れるとき、「あとで手紙を送るから」は大変失礼な言葉となる。また、「手のうち」「苦手」「「手にあまる」「手に負えない」「手回り」「手際」などから、さらに「話し手」「聞き手」「選手」「相手」と、手が人間の換わりに使われているケースも多い。

 (指摘されて、なるほどと思った)。

 「手心」を加え、「手加減」し、、「手の焼ける」やつとは「手を切り」、たくらみを見抜けば、「その手は食わぬ」と言う。昔の人は博打のことを「手慰(てなぐさ)み」といい、事態が深刻化すると、「手をこまねいて」事態の回復を待つが、「手をこまねいているだけじゃ、状況は悪化するばかりだ」と叱られたりする。

 欧米とアジアとの違いについて、「これか、あれか」、Either-or(二者択一)の文明が欧米であり、「これと、あれの二つとも」(Both and)(三者すくみ)の柔軟な文明がアジアであるといい、オランダを引き合いに出す。

 オランダ政府のここまでの政策が世界から注目を浴びているが、それは:

 1)特定の場所に限って売春もマリファナも認める。

 2)安楽死の選択にも柔軟に対応する

 3)リストラも、解雇と雇用のほかにワークシェアリングのパートタイム制度を導入、大量失職を抑止する。

 4)就業者は1週間のうち、何日休み何日就業するかを予め決めることが可能。

 であって、すでに、「Either or」の世界から抜け出ている。

 現在の文明はバランスと調和の感覚を失った二極化状態を示しているが、これには代案となる新しい文明のあり方が提示されなければならないだろう。

 (この提案には、洞察力の鋭さ、先見の明を感ずる。欧米諸国ではほとんどが「Yes Or No」という回答を迫るが、日本人間には「Yes」とも「No」ともつかない曖昧な回答もあるが)。

 韓国では、一寸、二寸、三寸と親戚関係を示す従来のシステムを応用して、国民全体をファミリーにするという新しいサイトを開いて、大変な人気になっている。これは「出会い系サイト」とは違って、顔が見えないサイトではない。

 (ここ数年急激に増えている韓国女優への中傷、嫌がらせ、誹謗、デマなどにより、何人もの女優が自殺をはかったとのニュースが流れている。他人事ではなく、人間という動物は救いがたい面のあることを、あらためて認識させられた)。

 世界で初めて世界地図を描いたのは、紀元前500年で、ギリシャのヘカタイオスによる。ヨーロッパ大陸が北側に在って、アジアは南側に在り、そのなかにアフリカのリビアも含まれている。アジア(Asia)も、ヨーロッパ(Europe)も、いずれもメソポタニアのアッカド語に起源があり、「日が出る」を意味する「アースー」が「アジア」に、「日が没する」を意味する「エレーブ」が「ヨーロッパ」になったという。この地図で見る限り、ヨーロッパとアジアとは南北に分かれ、二項対立の関係として捉えられていたことが判る。

 「中国の儒教の歴史を貫いて変わらなかったものの一つは、力の否定、軍事の蔑視だった」と言う。

(が、戦後は違う。借款(ODA)とはいえ、日本が貸しだした金を使い、軍事力の増強に努め続けているのは中国ではないのか。毛沢東だって、戦線各地で糧食を強制的に集め、蒋介石の軍や、反対派の軍と戦い続け、最終的に庶民の支援を受けて勝利したという経緯があるが、その庶民をも千万単位で殺している)。

 最後に「イソップ」の「アリとキリギリス」の話が紹介される。この話には色々なバージョンがあるらしい。

1)アメリカでは、玄関払いされたキリギリスが死を前に最後のバイオリンを弾く。冬の退屈さに鬱になっていたアリたちはその音色に感動して、キリギリスの周りに集まってくる。すると、キリギリスは「Ticket Please!」と叫び、Tickets を売りさばいて、大金持ちになる。

2)旧ソ連では、アリは門を開け、キリギリスと食料を分け合う。そして、冬が過ぎるころ、アリもキリギリスもともに餓死する。

3)日本では、夏のあいだアリは熱心に働いたため、冬になると食べ物をいっぱい倉庫に残しながら、過労死してしまい、物乞いにやってきたキリギリスは生き延びることができる。

 (韓国ではどのようなバージョンなのかに関する説明はない)。

 (日本と欧米との次元の異なる思考をいうのなら、相撲の世界も例外ではなく、横綱を英訳すれば「Grand Champion」だが、チャンピオンが複数で存在することなど、欧米ではオリンピックがそうであるように許容できない。日本で相撲を初めて見た外国人は例外なくチャンピオンの複数存在には目を剥き、唖然としたといわれる)。

 (また、将棋の世界でも、殺した相手の駒を自分の駒として使えるというルールはチェス以上にゲームを難しくしている。とはいえ、捕虜にした敵兵を見方として使うという考えは現実的ではない)。

 日本人の発想には、作者が指摘するように、ジャンケンばかりでなく、欧米の単純さからは理解しがたいユニークさが相当に存在する。

 著者の頭には、中国が紙(パー)、日本が石(グー)、韓国が鋏(チョキ)になり、三国が手を携えて新しい世界を創造し、アジア全体をリードしつつ、欧米人の二項対立、二者択一の単純な世界に替わって融和を図るという夢があるようだが、2005年の時点で経済恐慌を見通していたかの感もあり、著者の賢さに感銘を受けただけでなく、多くを学ぶことができた。

 ただ、本書の全般の文章展開には、韓国人に共通するのか、妙な顕示欲がり、ぶっきらぼうな印象があって、それが嫌悪感を誘うのはどうしたことだろう。日本人に対する「恨」には抜けないものがあるのかも知れない。


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