ハプスブルクとオスマン帝国/河野淳著

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

ハプスブルクとオスマン帝国

「ハプスブルクとオスマン帝国」  河野淳(1974年生/近世ヨーロッパ史を主な研究対象とする)著
副題:歴史を変えた「政治」の発明/トルコの脅威が近代ヨーロッパを生んだ
2010年5月6日  講談社より単行本初版 ¥1500+税

 

 私が過去に知っていたハプスブルクといえば、息子や娘をヨーロッパ各地の王族のもとに婚姻相手として提供し、あちこちに親類縁者をつくり、それこそがこの帝国の拠って立つところであるとばかり思っていたが、本書はそれもハプスブルクの一部ではあってもすべてではないことを学ぶ機会となった。

 結論もエキスも本書の裏表紙に書かれていて、「圧倒的軍事力を誇るオスマントルコから、いかにヨーロッパを防御するか、最前線に立たされたハプスブルクが採った対抗策ーーーそれは情報を収集し、ばらばらな見方の諸侯を相手にデータをまとめて説得し、糾合する一方、民衆を反トルコプロパガンダで動員し、防衛線に必要な戦費を各国から徴収、民からは税金という形で取得することだった。そのことは、「近代政治誕生のドラマを解明する画期的論考」と賞賛されている。

 「ビザンツの海上支配力の弱まった11世紀以降、地中海はそれまで欧州とアジアとアフリカの交通と交易の大動脈でありターミナルだったのが、イスラムの海と化したものの、イスラムの描いた地中海経済のパワーは期待したほど伸びることはなかった。阻止したのはハプスブルクがハンガリー、クロアチア、ドイツ内諸侯を結集し、対抗した軍事力だった。

 (とはいえ、地中海沿岸のスペインを含め、アフリカ大陸各地にイスラム教寺院が建立されるようになったのは事実であり、今日でもそれは存在する)。

 当時、ヨーロッパ連合の主役を務めたのはハプスブルク家であり、神聖ローマ帝国に任命を受けたのは力強い支配力とは縁のないとの判断が安心感を生み、周辺諸国に反対する国がなかったからだが、ハプスブルクの家が頼もしい実力を見せつけはじめたのが主に婚姻政策だったことは広く知られている。

 ハプスブルクが本格的にオスマン帝国に立ち向かうようになったのはハンガリー、クロアチア王位を1520年に得てからである。ちなみに、軍人の動員力はオスマンは常時1万2千から3,4万であるのに対し、ハプスブルクは6千くらいだった。また、ハプスブルクの防衛手法は外国人部隊に依存するという形だった。

 オスマントルコ帝国は南から北に向かって攻め上がり、ハプスブルクは前線に当たる諸国を指揮して南に向かうという形だが、戦場となったのは主に南東欧州で、旧ユーゴスラビア、ハンガリーなどに集中。

 (ハンガリーはこの時代以前から国の領土が恒常的に変化するという難しいロケーションにあったが、オスマントルコの台頭によって領土は著しく減少したし、二度の大戦後にも変容をくりかえすという不運にも見舞われた)。

 対オスマン防衛もクロアチア王国は前線に出てこない国家、諸侯群による援助に軍事費を頼っていた。戦時における経費は膨張し、巨大な負債を生み、指揮するハプスブルク皇帝の肩にかかる借金は膨大なものになった。

 そこで、ハプスブルク皇帝は欧州のドイツ領内のプロイセン、スロベニアなどオスマンが肥大化した場合に被害を受ける可能性のある国、領土をもつ大公などを集めて議論を行なった。ハプスブルク皇帝は前線の戦闘状況を詳細に示したうえで情報として流し、そのうえで経済的援助がなければ、オスマン帝国に対抗できない旨を説明した。これが欧州において、情報が実証的な解説となり、従来の思念的な戦争のあり方を変えたとのだと言われる。それは「政治的進歩の一つ」と言い換えてもいい。

 ハプスブルク皇帝はこのままの形でオスマントルコと対峙し、1683年、ハプスブルクがウィーンを包囲していたオスマン軍を跳ね返したうえに追撃し、1699年に平和条約を交わすまで続いた。

 余談だが、欧州のパン「クロワッサン」はトルコ旗にある三日月を模したもので、それを食ってしまうことで、ある種の溜飲を下げていたといわれる。

 本書を読むことで、これまで知らなかった中世欧州におけるハプスブルク家の活躍を知ったことは幸運だった。

 とはいえ、オスマン・トルコ帝国は上記したように欧州と戦いながら、一方でロシアとも数度クリミア半島越しの戦争をしており、そのうち一度はオスマン帝国が勝ち、ロシアは賠償金を払うためにアラスカをアメリカに二束三文で売り渡したという苦い経験がある。ロシアをやりこめた経験を持つ点で共通するという点で、トルコは我々が想像する以上の日本に親近感をもっている。


前後の記事

«  (前の記事)

(次の記事)  »

現在はコメントを受け付けておりません。

サブコンテンツ