バルトの楽園/古田求著

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「バルトの楽園(がくえん)」 古田求著
潮出版社刊 2006年5月初版 単行本  ¥1,200

 
 世界第二次大戦についての書籍はごまんと存在するが、第一次大戦に関する書物に接するのは初めて。

 この戦いが、1914年、セルビアの一青年がボスニアのサラエボを訪れていたオーストリアの皇太子夫妻を狙撃し、死亡させたことに端を発して、オーストリアがただちにセルビアに対し宣戦布告したことに始まる。ドイツ、ブルガリア、トルコが追随し、一方セルビア側にはイギリス、フランス、イタリア、ロシアの連合軍が後ろ盾となり、会戦となったことは知っていた。

 戦時途中からアメリカがイギリス側の後ろ盾となって参戦し、足かけ5年にいたる戦争を終結させたが、戦争途次に参加した国がトータルで25か国におよんだことが「世界大戦」という名称の興りだった。

 会戦後、同盟国だったイギリスからアジア内に存在するドイツ拠点や領土を攻撃、奪取することを依頼され、日本は1800人という死傷者を出しながら、ドイツが中国から租借していた青島(ちんたお)で要塞を守備していたドイツ軍を7日間で撃破、降伏させ、ついでにドイツが委任統治していた南洋諸島(マーシャル、パラオ、マリアナ、カロリン、ビスマルク、サイパンなど)を手中におさめ、戦後、ビスマルクだけをイギリスの要望により、オーストラリアの委任統治にゆだねた。(南洋諸島の名前は本ブログで書評した「世界地図から歴史を読む方法」から)。

 本書により、青島で捕虜にしたドイツ兵が4,600余名あり、この人たちを12箇所の全国に散らばる捕虜収容所に分離収容したところ、どの収容所も西欧人から見たらお粗末きわまりなく、寝具が蒲団で、南京虫、シラミなどに悩まされ、和式トイレしかなかったことに捕虜側がアメリカを通してクレームを出し、日本側は仕方なく、収容所を減らし、当時としては破格ともいうべき、洋式の大収容所をつくって、当時国際的な条約となっていた捕虜を扱う場合の条件を充たしたという。そのうえ、パン、コーヒー、ビールまでお金(軍票)さえ払えば買える仕組みにした事実には驚きさえ覚えた。

 日本軍人は「生きて虜囚(りょしゅう)の辱めを受けず」という教育を受けてきたから、最初は相手に対し軽侮するところがあったし、指示に従わなかったり、文句をいえば、殴る、蹴るという侮辱的な行為はあたりまえという風潮もあった。ところが、本書の舞台となった徳島県の板東(現在は鳴戸市大麻町)という土地では、管理する日本軍側も、周辺住民も、かれらを温かく迎え、処遇し、捕虜側の兵士らもそれぞれの専門技術を生かし、ケーキやパン、乳牛からの搾乳方法、ソーセージ、チーズ、バターのつくり方、楽器の使い方、器械体操、サッカーなどを土地の子供らに教え、和気藹々の関係が継続した。

 本書は小説だから、虚飾や創作した点も多少はあるだろうが、およそはそうした歴史的事実にもとづいて書かれている。むしろ、自国が欧州に参戦していない気軽さもあり、交戦国からの造船や火器の注文に応じることで国庫を潤していたという楽な立場にあったことも余裕を生み、列強の一国であるとの自意識、矜持が連合国の一員にふさわしいレベルを目指した大きな要因だったと思われる。

 第二次世界大戦後、一婦人が草に埋もれた石碑を発見し、これが板東の収容所にいたドイツ人捕虜の11名が収容中に亡くなったために当時造られた墓であることに気づき、人知れず13年間、草を刈り、墓石を水で洗い、花を手向け、掌を合わせていたことが地元新聞社の知るところとなり、報道されると、日本在の西ドイツ大使館から本国に記事が送られ、生きていた同僚たちから大使館経由、婦人の善意に感謝の言葉が贈られたという。 この婦人の夫が太平洋戦争に負けたあと、ちょうどウズベキスタンに収容されていたため、夫の無事を祈りつつ、一人でこのような行為を続けていたとは、夫人の弁。

 また、当時、ドイツ人の愛国歌は「旧友」だったこと、板東に住む日本人はだれもベートーベンの名も、第九も知らず、交響曲というものを耳にしたこともなかったことを知ったが、そうした状況は板東だけでなく、どの地方も同じであったろう。

 終戦後、帰還するにあたり、捕虜たちは感謝の気持ちをこめ、日本国内のあちこちから楽器を集め、板東の人々のためにベートーベンの第九を演奏し、別離の記念とした。人々ははじめて耳にする交響曲のスケールにも、多くの楽器による音色にも驚嘆したであろう。

 実は、このような演奏会はなにも坂東だけでなく、捕虜収容所のあった土地のほとんどでなされたのが事実で、ドイツの捕虜たちに親切であったのは別に坂東の人ばかりではなかったという話もある。当時の日本人が一等国の一国に、列強の一国になりたいという熱意から、政府が収容所近隣に住む日本人に特別の配慮をするよう指示した経緯が伝わってくる。

 捕虜のなかには日本に残って商売をした人もいたらしいが、当時の日本のイミグレーションはそれほど外人に対して厳しくなかったのだということも薄々感じられた。

 内容的には、いわゆる、「とても感動的な話」なのだが、不本意に思うのは、この物語が映画化され、全国公開されたのが2006年6月で、本書の出版が同年5月、たった1か月前ということに関係するのだろうが、あまりにタッチが軽く、さらさらと書かれ過ぎていることで、そのために史実に対する突込み不足が感じられたことだ。本ブログで後に紹介した「マルタの碑」(2006年8月30日書評)を読むことで、一層、その感を強くした。

 原書がすでに存在していて、その内容にベースして映画を創ったのではなく、映像化は決まっていて、そのために急遽、販売を目的に本書をまとめたという経緯があったのではないか。 そのような推量をさせるほど、文章に重みが感じられず、拙劣ではないものの、書き手の気迫が伝わってこないことに苛々を感じたというのが正直なところ。

 ノンフィクションというものは、必ず、内容的に読者を興奮に導くものがあるはずなのだ。逆に、挿入されている写真が映画化されたときのものが使われているため、配置も内容に沿ったもので、それぞれ驚くほど鮮明という利点はある。

 本書を通じ、第一次世界大戦の一部に触れ得たことは、それなりに意味があった。


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