パナマ運河史/河合恒生著

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panama

「パナマ運河史」 河合恒生著
教育社歴史新書  1980年3月初版

パナマの地図
(上の写真はパナマの地図、赤線が運河)

 

 本書は前半の90ページまでは西欧諸国の中南米、北米における植民地化や現地人殺戮の暴挙に割かれ、カリブ海の海賊の話から、アメリカ史にまで言及していて、話がパナマ運河に集中していないことに、苛々させられる。以下は、92ページからの話で、ポイントを列挙、私見は(  )内に収めた。

 パナマ運河はスエズ運河と異なり、シー・レベルでの運河ではなく、閘門(こうもん)式の「ロック」と呼ばれる運河である。土地の半分以上は海抜300メートル以上の高さがあり、300以上の河川が大西洋、太平洋の両大海に注いでいる。運河をつくるために掘り起こされた土の量は2億4200平方ヤード、コンクリートに使われた量は500立方ヤード。(と説明されても、見当がつかないが)

 1850年、パナマ政府がフランス人でスエズ運河を開設した人物、レセップスと鉄道建設に関して合意すると、

資金集めを開始、当時、パナマを領有していたコロンビア政府への利権移転料を含めた金額を支払い、1880年にパナマで鍬入れ式を行い、運河開設をスタートさせた。

 レセップスは当初スエズと同じ手法、シー・レベルでの運河開設を考えており、そのためにはコルディレラ山脈の一部、クレブラを海水面まで切り下げて船を通すためには深さ100メートルの人工谷を切り開くことが前提だった。もう一つの問題は太平洋側と大西洋側の海潮の干満の差で、高潮を防ぐためにガドゥン湖に巨大な堰堤を築く必要があった。

 1851年10月工事開始から1年半が経った時点でも6キロしか完成せず、太平洋岸のコロンまでの一部ルートが完成したのは1855年1月だった。たったそれだけの工事に700万ドルのコストがかかったばかりか、労働者のコロンビア人、ジャマイカ人、アイルランド人、中国人など、9千人の死者を出した。

 パナマは亜熱帯気候だが、4月から12月まで雨季に入り、数時間にわたって豪雨が続くことがあり、一年中を通じて高温多湿。クレブラは掘っても掘っても、雨のたびに地滑りが起こり、再び埋められてしまった。工事開始から6年経っても、まだ3メートル半しか掘り下げることができず、そのうえこの土地特有ののマラリア、黄熱病が猛威をふるい、工事開始から8年間で3万人が死亡した。この当時、蚊の運ぶウィルスについては認識がなかった。

 その時点で、レセップスは閘門(こうもん)式の運河開設に切り替えることを考え、本国のフランスに社債発行の認可申請をしたが、イギリス、アメリカの策動によって妨害され、相場が25%も下落、そのうえレセップス死亡という虚報まで流され、彼はこの仕事から手を引かざるを得なくなった。

 1898年、レセップスがギブアップして43年後、米国・スペイン戦争の結果、米国が勝利を得たことをきっかけに、カリブ海はいうに及ばず、ハワイを併呑、フィリピンを入手、中南米に覇権を誇示、余勢を駆って、パナマにコロンビア政府への反乱を起こさせ、アメリカは3日後には新パナマ政府を承認、同年、パナマ政府と運河開設条約に調印、翌年にはフランスが残した運河工事を再開した。太平洋に領有する土地を得たことがアメリカを急がせたといっていい。

 条約の内容が意図的に、かつ秘密裏に改変され、幅6メートルが10メートルに、主権をコロンビアが保持することを条約から削除、司法権、衛生行政、水道、下水道など、アメリカ有利な条件へと改変。条約はパナマ新政府に強制、批准され、アメリカ本土でも1904年に批准された。20世紀以降も資本主義体制のつくりだす賄賂と腐敗は少しも変わっていない。(社会主義の国では、賄賂行政はもっとひどい)

 1904年には現地踏査、パナマの自然の厳しさは当時の人類にとっては多くの犠牲を強いるものだった。閘門式に決定されたのは1906年、まずマラリア、黄熱病、腸チフスの予防対策が徹底的に行なわれ、ダムの建設から労働条件の整備が進んだ。当初は、現地を監督する人間とアメリカ本土側とのあいだに認識に関する齟齬があり、同一人物が両側を兼任することが決まり、軍の大佐だったゲーサルスが軍事的規律を持ち込むことによって工事は軌道にのった。

閘門2
(上の写真は閘門式の開閉扉)

 ガトゥダムがつくられ、クリストバルに港がつくられ、ガトゥダムまでシーレベルの水路が掘られ、この水路からガトゥ湖へ船を25メートル上げ下げする閘門が設けられた。かつてフランスを苦しめたクレブラの台地の切り開き、太平洋の港までの水路を掘り、そことクレブラとの間を船を上下させる閘門をつくった。太平洋岸が一部埋め立てられ、さいごにパナマ鉄道の移動が行なわれ、工事は完成。船が通過できるようになったのは1913年9月だった。

 運河工事完成までに費やされたコストは当時の金額で5億4663万ドル、工事に携わったのはアメリカ工兵隊のほか、主に西インド諸島から移住した労働者を動員。1912年の調べでは、西インドからの労働者は30,859人、中国人を合わせると5万人余、白人は主に監督として働き、有色人種は異なる扱いで、賃金も住宅も差別化された。

ゲイラード
(上の図はゲイラード水路、3つの人造湖のうちの1つ、と鉄道のイメージ)

 1904年、アメリカから送りこまれたガバナーは運河地帯に裁判所を設け、警察を組織、警察は元軍人によって編成された。アメリカの関税制度をもちこみ、アメリカ大統領が直接行政命令で統治するという仕組みで、パナマ政府の行政は一切排除された。1914年、ウィルソン大統領は運河地帯に常設政庁を置き、知事制度を指揮、全権限を掌握した。

 コロンビアはパナマ共和国の承認を拒否したが、第一次大戦後に経済困難に陥り、アメリカから2500万ドルの支援を受けたことで、コロンビアとパナマの国境があらためて決定され、コロンビアとアメリカ間に残されていたパナマ問題は決着した。とはいえ、パナマ市民の反米感情はアメリカによる一方的な条約の批准により煽られる結果を導いていた。(アメリカに干渉される国はほとんど必ず対米感情を悪化させる。唯一の例外は日本)。

 1975年の調べによると、一年間にパナマ運河を通過した船は15,000隻、一日に30から40隻で、収益は1976年度1億349867ドル、(当時の為替レート換算で270億円)、1,000隻以上の船を通過させたのは日本、リベリア、イギリス、アメリカだったが、リベリアは便宜置籍船を持つ国だから他の資本主義国の船と考えてよい。

 船の種類はパルク、コンテナ、一般貨物船、冷凍船、タンカーなど貨物を運ぶ船がほとんどで客船は1976年に137隻と僅かな割合だった。

 パナマを通じて日本に入ってくる商品の全体量は1973年に3,624万トン、1974年に4,292万トン、1975年に3,277万トンで、大西洋から太平洋に運ばれる総量の50%前後を占めていた。

パナマシティ
(上の写真は後方がパナマシティ、手前は運河を走る船舶)

 アメリカはパナマ市民の不満を解消するため、1974年、キッシンジャーとパナマ首相間で交渉し、合意をみ、1978年、カーター大統領は新条約に調印、パナマ運河はようやくパナマ人の財産とする展望を獲得、新条約は1979年に発効した。

 パナマ運河をパナマ人が地力でつくることは技術的にもコスト的にも不可能であったはずで、コストを出し、技術的に問題なく運河を開設したのはアメリカであり、当時、アメリカが相当の権利を主張したのは当然のことのように思われる。運河開設事業はチャリティではなかった。作者が一貫してアメリカを批判する論調を続ける内容は合点がいかない。工事手法の洗練さはフランス人のレセップスの比ではない。とはいえ、アメリカの傍若無人ぶりはなにもパナマに対してだけではなく、ハワイの領土化、中南米諸国の資源を産する国への威嚇と資源調達などもそれらの線上にある。

 本書は1980年の初版であり、その後、運河はさらに幅が拡張され、今日に至っている。本書では、日本の五洋建設が第二の運河のアイディアを出し、それが実現される可能性を示唆しているが、現実には幅の拡張だけで、終わっている。

 ちなみに、パナマ運河を通過するには平均9時間を要する。


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