ヤクザという生き方/朝倉喬司ほか12人著

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「ヤクザという生き方」  朝倉喬司ほか12人
本書は1986年に、単行本として初出版
宝島社  2006年12月初文庫化

 

 暴力団組織の実態について、作家、弁護士、フリーライター、ルポライター、ジャーナリスト、大学教授、週刊誌記者、在日朝鮮人、ラジオやテレビのコメンテイター、民俗学者らの手になる著作で、広域暴力団の組織化、抗争の実態、経済力維持の手法、刑務所との関連、警察との関係、家族との関係、姐さんの立場、海外との結びつきなど多岐にわたって暴力団の実情に迫る内容。

 この国では、むかしから、清水次郎長、幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべえ)、平手幹など、任侠に生きたヤクザを礼賛する傾向が強く、かれらの生き様が芝居にも、講談にも、浪曲にも、戦後は鶴田浩二から高倉健まで使われて映画化され、庶民の憧憬心理に根づいているといっていいだろう。それは、あくまで、「強きをくじき、弱きを助ける」という、民衆の立場に寄った行動に根があり、昨今の「弱者を威嚇し、騙し、たかる」という暴力団とは趣を大きく異にし、イメージ的には180度異なる。

 テレビでも新聞でも、「暴力団」という言葉を平然と使うことは、そうした組織の存在を認知しているかのような印象を受け、非常に奇異な感じをもたざるを得ない。警察による再三におよぶ「暴力団撲滅」という旗印も、旗は揚がっても、現実には暴力団は消えることなく、一般人よりもはるかに高い経済力をもち、むしろ警察とは「魚心あれば水心」といった癒着関係すら存在し、撲滅どころではないことが本書によって判るし、建設会社が元警察官を雇用し、暴力団を知悉している能力を活用、地上げを行なうなど、「恥」「愧」という感覚を喪失した嘆かわしい事態を超えた行為がニュースにもなっている。

 暴力団の存在をそれと知って許容している社会が基本的にいびつなのだ。そのうえ、過日、福田総理が「暴力団も投票権をもっている」との言葉を吐き、耳にした私は吐き気をもよおした。

 そういう考えと期待をもって本書を読み進むと、半分以上は「擁護」であり、ときに「賛美」であり、「必要悪」であり、為政者(政治家、官吏)との癒着、つまり為政者がかれらを利用している事実を熟知している警察としては、徹底的な摘発にも、法改正にも、思い切った手段を採れないという実情があるらしい。

 山口系広域暴力団の三代目、田岡一雄(美空ひばりが<おっちゃん>と呼んでいた男)が逝去した後、跡目相続をめぐって全国的に抗争事件が発生したが、その折り、NHKまでが特集番組を組んで、分派した組の争いにスポットをあて、23%を越える視聴率を記録したとあるが、「NHKまでが、まさか」という気になった。

 「暴力団とは『任侠』を看板とし、暴力、武器をかざすアウトサイダーたちの反社会的行動であり、単なる利権争いに過ぎず、ヤクザ社会の「任侠を極める」という生き様の論理の裏には非生産者階層としてのエゴイスティックな生態が否定できない」とは、大道智史氏の言葉だが、異論はないものの言葉が才に走り、実感に乏しい。

 かれらの糧は麻薬の販売、競売にかけられた物件への介入、民事介入、フィクサー役、総会屋、パチンコ、用心棒、ソープランド、風俗店からのカスリなどであり、東京の歌舞伎座地域は放っておいても、金を生み出す宝島だという。

 日本は「銃社会」ではないというが、暴力団は常に重火器を保存し、いざ抗争となれば、それらが火を吹くことになるだけでなく、許可され取得すれば猟銃であろうがエアガンであろうが、購入することが可能であり、それらを利用した殺人事件も後を絶たない。このような実態を鑑みて、「日本は銃社会ではない」と言いきれるのだろうか。アメリカの銃社会を一方的に攻める立場にあるのだろうか。

 本書を読んでいて、面白いと思ったことは:

1.ヤクザは英語ができないから、日、中、米の国際的暴力団組織をつくりあげることは不可能。

 (ヤクザは日本語が通じる航空会社を利用すると大きな顔をしているが、英語しか通じない航空機に乗っているときは、借りてきた猫のようにおとなしい)。

2.入墨をすると、腎臓、肝臓に悪影響をおよぼし、皮下神経をダメにする。

3.落とした小指にプラスチック製の義指をつけるのが最近の手立てだが、最も上手な病院は、警察病院。 

4・姫路市には人口比で、やけにヤクザが多い。30キロしか離れていない岡山市ははるかに平穏で、平和であるというのに。

 最後にはっきり申し上げるが、ヤクザを「暴力団」というのなら、そういう組織をつくること自体を禁止する法律を考えるべきだ。


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