ユダヤ・エリート/鈴木輝二著

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ユダヤ・エリート

ユダヤ・エリート
 鈴木輝二(1934年生/東海大学法学部教授)
 副題:アメリカへ渡った東方ユダヤ人
 中公新書  2003年3月初版

 私は過去13年間にわたり北米地区からの観光客誘致の業務に従事、北米大陸のほとんどの都市を訪れ、セールスした履歴をもつが、その間、北米の旅行エージェントの経営者にはユダヤ人が多く、彼らとのかかわりから屈辱的な契約を結ばされたり、相見積もりでいじめられたり、果てはツアー終了後に計画倒産されたり、居丈高に応接されたり、と同時に「同じアジア人ではないか」と暖かく迎えてくれたりという真逆の経験もあり、ユダヤ系カナダ人、アメリカ人に対しては特殊な感情と関心が深く胸の底に根づいている。

 余計なことを言えば、ビジネスが貰えるか否かという際に、しばしば一円、二円の攻防になることがあり、こうした交渉の後、私たちはよく「典型的なクイチ(九一)ビジネスだな」と吐き捨てたものだが、9+1=10となり、10は「Jew」を意味し、クイチと言っていれば彼らには解るまいとの心算だった。現実には、日本人の誰かが彼らに教えたらしく、クイチがユダヤ人を指す日本人による悪感情を秘めた暗号であることを知っているユダヤ人もいた。

 本書には、ユダヤ人が迫害され、追放され、殺害され、離散し、各地を転々とした歴史も網羅されているが、過去にも2005年8月24日同年10月11日に分けて「ユダヤ人の歴史」上下巻の書評をしているので、重複を避けるため、タイトルの「ユダヤ・エリート」に絞って、以下、要点を自分の備忘録として箇条書きにした。

 ただ、年代的には、第一次大戦、第二次大戦、戦後の東西冷戦から終結までという三つの時代に限定されること、登場する人物には学者が多いため、日本人一般には馴染みのない人物が多いことを、あらかじめ諒解願いたい。私の視野に入ったユダヤ人の学者は僅かに心理学国際学会が日本で開催されたときくらいのもので、大抵はブローカー的な業務をこなす人、不動産業者、俳優、自動車のビッグディーラー、貴金属商の類で、自ら手を土に染める農業従事者に出遭ったことはない。

1.ユダヤ民族にはスペインを中心に広がった「セファルディ」と、中東欧に暮らした「アシュケナージ」の二つの系統があるが、本書に登場するユダヤ人のほとんどは後者であり、人口的にも、アシュケナージが多数派である。

2.ユダヤ人だからすべてユダヤ教の信者というわけではなく、キリスト教徒に改宗したユダヤ人も少なくないし、(科学者のなかには)脱宗教者も多い。

3.イスラエル建国に邁進した愛国主義者とは距離を置くユダヤ人も存在するし、迫害や追放に長年耐え続けてきたユダヤ人の経験をもつ歴史がパレスチナとの関係に生かされていないことに遠くから苦悩するユダヤ人はアメリカ在住のユダヤ人に少なくない。

4.迫害や追放による転居に継ぐ転居の結果、ユダヤ人は世界に散りつつ、自動的にネーットワークが拡大され、多言語の知識や多文化経験に基づく国際的な行動力を身につけた。民族固有の教養主義の継続は優秀な人材を数多く輩出し、時代の変化に対応した新しい思考や着想を生み出す原動力となった。

5.20世紀初頭に社会主義革命運動のリーダーとしての役割を果たしたのはユダヤ人のカール・マルクスであり、ロシアのポリシェヴィキ革命で、レーニン、トロッキーらによる主導で実践に移された。

6.ナチスのホロコースト(大量虐殺)は20世紀最大の反ユダヤ主義政策であり、数百万人の殺害と、数千人の知識人の欧州からの追放は、欧州文明にとって決定的な負の遺産として残った。難民の大半を受け入れた米国では彼らの力により第二次大戦後の国際秩序における指導者となった。米国が戦後建設されたイスラエルの最大の支援者となった理由でもある。

7.大戦前に迫害された大量のユダヤ人を受け容れたのはポーランドで、西欧の中で出遅れていたため、ユダヤ人の経済的能力を利用し、経済の活性化を図ろうというカジミエシェ大王の思惑があったからで、大王は彼らに特別居住区を用意し、ユダヤ人にとっては文字通り安住の地となったものの、間もなくプロイセン、ロシア、オーストリアによる分割という事態となり、最も多くのユダヤ人が移住したのはロシアで、少数がアメリカへの移住を選択した。当時、ドイツ人をスラブ系言語でユダヤ人を「ニエミッツ」と称したのは、「しゃべらない人」という意味である。大戦後のポーランドでも、ユダヤ人に対する知的ポブロム(虐待)に基づき、言論上のタブーや無視、無関心が依然としてあるのは、それだけナチスの影響が強かったことと併せ、ユダヤ人がロシアを赤化した事実に基づくものであろう。

8.第二次大戦までに米国のユダヤ人口は世界最大となり、大戦後はイスラエルの建国により、再移住者が増え、世界のユダヤ人は米国とイスラエルに分かれた。

9.中東欧の歴史家が無視しがちな歴史観は、この地域に残留居住したユダヤ系知識人の協力、参加があって近代化が構築された事実。

10.欧米社会におけるユダヤ人の天職は法曹、医師、学者、金融であるというイメージが強く、シェークスピアの「ヴェニスの商人」は悪徳ユダヤ人の高利貸しを描いたものだが、音楽家のメンデルスゾーン、シェーン・ベルク、ストラヴィンスキー、ブルーノ・ワルター、相対論のアインシュタイン、ノーベル文学賞のトーマス・マンもユダヤ人である。

 以下には具体的な人物名を記す。

1)スピノザ(オランダの哲学者)。

2)ベルクソン(1928年にノーベル文学賞を受けた)。

3)レヴィ二ストローヌ(社会学研究家のデュルケームの門下生で、文化人類学の創設者)。

4)グナイト(伊藤博文はフンボルト大学で憲法起草の指南を受けた)。

5)ハイネ(ドイツロマン主義の詩人、バルザックやマルクスとも交流があり、多くの詩に曲がつけられ、ドイツ歌曲として世界中で愛唱、愛聴されている)。

6)ガイガー(ゲーテ協会会員はほとんどがユダヤ人だが、そのうちの一人、同化主義の文学者、ルネサンス文化研究の権威)。l

7)ハンナ・アーレント(ユダヤ系政治学者の代表的存在の女性)。

8)ヘルツル(シオニズムは独自の国を建設しようとの希望だが、初めて具体的に提唱した人物)。

9)トロツキー(マルクス、レーニンに協力、ロシアの革命に奔走、実現した人物だが、レーニンの死後、スターリンと対立、亡命するも、1940年スターリンの送りこんだ刺客によってメキシコで暗殺された。スターリンが粛清と称して殺害したユダヤ人は犠牲者の数が今日でさえ計り知れないスケールだった。ヒトラーを凌ぐという説が強くある。とはいえ、現在でもロシアに居住するユダヤ人は100万人を超え、モスクワ、キエフ、サンクトペテルブルグなどの大都市に集中している)。

10)リトブノフ(冷戦後、ロシアの駐米大使に任命され、1941年から43年まで駐在中に議会が武器貸与法作製、ほどもなく、アメリカはソ連を同盟国として扱い、総額110億ドルを越す破格の軍事援助を行わせることに成功。スターリンも彼の外交能力を無視できず、粛清から免れた。

11)プロイスとマックスウェーバー(ドイツ帝国崩壊後、ワイマール共和国の成立が宣言され、1919年にワイマール憲法を採択した中心的役割を果たした公法学者)。

12)ラーテナウ(体戦後、ドイツの責任を問う条件が過大であるとの不服が民間に強く、一方、強硬姿勢を崩さないフランスとの折り合いがつかず困惑していた時期、ドイツの外務大臣だった彼は秘かに連合国側の一国、ロシアと交渉、電撃的に独ソの包括的な国交正常化条約と通商協定を締結、独ソ同盟はフランスにとり脅威となり、強硬姿勢を緩める結果となったものの、ラーテナウはまもなく暗殺される。ここには、ドイツ的軍国主義文化と絶縁できず、ヒトラーを誕生させる悲劇が垣間見える。1919年から22年のあいだに、ユダヤ人350人ほどが暗殺やテロの犠牲となった。

13)1930年、僅かに12議席だったナチスが一挙に107議席を獲得する躍進をとげ、1932年には過半数には至らなかったが230議席で第一党となり、連立政権ながらヒトラー独裁体制が整い、1933年から35年にかけ約6万人のユダヤ人が国外に脱出、と同時に多くのユダヤ系市民や有識者が職を追われた。これはユダヤ人600万人の犠牲者を出したホロコーストの予兆に過ぎなかった。ポグロムは異教徒に対する警戒心から発する衝動的な大衆行動であるのに対し、ナチスの反ユダヤ主義は大量殺人を国家システムのなかに組み込み、全官僚組織だけでなく、国民の義務としてユダヤ民族の壊滅を強要するものだった。(アンネの日記を書いたアンネも犠牲者の一人)。

14)オーストリアは第一次大戦後、ハプスブルグ帝国は崩壊し、1919年に連立政権が誕生すると、閣僚のポストがユダヤ系で占められていることに保守派の市民から動揺の声があがった。首相はレンナー、外相はバウアー、蔵相はシュンペーター、新憲法の起草者はケルゼン、いずれもユダヤ人だった。

15)音楽家のマーラー、フェリックス、メンデルスゾーン、オッフェンバッハ、シェーンベルクなどの曲や演奏は禁止、唯一ヨハンシュトラウスの曲だけはあまりにオーストリア的だったためナチス当局も見逃すしかなかった。

16)カフカ、ツヴィク、(文芸家の出版物がドイツにおけるハイネと動揺に禁止)。

17)フロイト、ヴィトゲンシュタイン(精神分析学、哲学者は相次いで亡命を余儀なくされた)。

18)ケルゼン(オーストリアで憲法の起草者だった人物、アメリカに亡命したものの、当時は英語も話せなかった。ケルゼンの哲学は日本人学生に受けたほどアメリカ学生には受け容れられず、失業の後、カリフォルニア大学バークレー校で政治教授として迎えられ、1951の停年まで在職)。

19)シュンペーター(1931年には来日し、一つ橋大学で講義、1932年にハーヴァード大学から招聘され、経済学教授として活躍。この時期のハーヴァードは経済学の黄金時代だといわれた)。

20)ハーバラ(第二次大戦後のプレトンウッズ体制の構築に、特にガット「関税と貿易に関する一般協定」の起草者として名を挙げる)。

21)ミーゼス(オーストリア時代からシュンペーターと並ぶ論客だったが、1940年に米国に亡命、1945年にニューヨーク大学に招かれ、停年まで大学院教授を務める。教え子のチェコ出身者、ハイオクレの「自由市場主義経済理論」がノーベル経済学賞をとると、ミーゼスを再評価する動きがあった)。

22)ポール・サミュエルソン(経済学者)

23)スウィージー(経済理論学者)

24)バラン(マルクス経済学者)

25)上記三人の学者は当時の学界で圧倒的に支持されていたケインズ理論を批判、ニューディール政策の評価といった今日でも関心を呼びそうなテーマが採り上げられ、刺激に満ちた講義が展開された。

26)ポール・サミュエルソン(シュンペーターに師事、マサチュセッツ工科大学の経済学部をハーヴァードと肩を並べるトップクラスの講座に成長させ、1970年にはノーベル賞を受賞)。

27)タウベンシュラーグ(奇跡的にホロコーストを免れ、戦時中にアメリカに亡命、戦後はポーランドに戻った。ライプツィヒ大学に留学、ローマ法学の権威であるルートヴィッヒ・ミッタイスのもとで学んだが、後日、ローマ法と法史研究の第一人者になった。1939年、ドイツ軍が大戦に突入すると、リスボンからニューヨークに渡った。コロンビア大学で古代文明論とローマ法を講義、戦後はポーランドに帰国、ワルシャワ大学法学部で講義を続けた。

28)カーク・ダグラス(アメリカの俳優、オデッサからアメリカに逃亡した。俳優といえば、エリザベス・テイラーもユダヤ人であるとの説がある。エンタテイメント・ビジネスに関してユダヤ人にはセンスがあるとは従来から言われている)。

29)ガーシェンクロン(経済学者)。

39)マルシセータ(経済学者)。

40)ロゾクス(日本経済の専門家)。

41)ヤコブソン(言語学者、6か国語を話し、25か国語を読みこなす異能の学者)。

42)ティマシェフ(法社会学者)。

43)ギュルヴィッチ(社会学者/法学者)。

44)リローキン(社会学者)。

45)レヴィ・ストロス(数学者)。

46)ノーム・チョムスキー(ヴェトナム反対運動家、環境問題研究家。映画監督)。

47)ノルベルト・ウィーナー(サイバネックで知られる数学者)。

48)ガメンホフ(ベラルーシ、リトアニアの文化圏からエスペラント語を創作した医師)。

49)ギュルヴィッチ(ロシア生まれの法社会学者)。

50)カンター(クリントン政権時の米国通商代表で、日米交渉に携わった)。

51)エマニュエル・レヴィナス(哲学者)。

52)セルギウス・ヘッセン(刑罰の哲学という著作を書いた政治法学者)。

53)コタビンスキー(ポーランドの代表的哲学者)。

54)ブランダイス(ウィルソン大統領時の最高判事)

55)フランクファーター(ウィルソン大統領時の最高裁判事、ハーヴァード大学教授。さらに、ルーズヴェルト大統領時、再度、最高判事。多くの人材を育てたことでも有名)。

56)マック(法曹界の人物だが、児童の待遇改善や差別問題に関心が深く、1918年には全米シオニスト会長となり、パリ平和会議に出席)。

57)マーシャル(法曹界の人物で、法律事務所を開設)。

58)カルドーゾ(フーバー大統領時、最高判事)

59)コーエン(シカゴ大学で博士号を取得。ユダヤ国家建設構想にコミット。ルーズヴェルト大統領府のブレイン・トラストの一人。証券、為替法、公正労働基準法、武器貸与法の起草者。トルーマン大統領時には国連代表となり、軍縮問題を手がける)。

60)リリエンソール(ニューディール政策の代表の一つ、テネシー・ヴァレイ公社の理事に就任、創設期の12年間で先例のない事業を軌道に乗せた)。

61)フォルスター(ジョンソン大統領時の最高裁判事)。

62)バーンズ(アイゼンハワー、ニクソン、フォード、カーターにいたる歴代大統領の経済顧問。1970年から78年までは連邦準備制度理事会の議長として、アメリカ経済のドルの守護神と言われる。グリーンスパンもバーンズの指導を受けた一人。

63)バーンスタイン(音楽家として大成、ニューヨークで指揮者として活躍)。

64)キッシンジャー(ジョンソン大統領時、1960年代のヴェトナム戦争に関してハンス・モーゲンソー(シカゴ大学教授)と論争したが、両者ともにユダヤ人)。

65)ラインシュタイン(シカゴ大学法学院の客員教授。大戦後、アメリカ政府の要請を受け、西ドイツの法改革に参加)。

66)シュレジンジャー(渡米後、コロンビア大学法学評論の編集者。次いで、コロンビア大学の比較法教授として在職)。

67)ヌスバウム(コロンビア大学で国際法、通貨法、法史などを講義)。

68)バーマンとハザード(両者ともにソ連邦研究の権威)。

69)オスカー・シュヒター(国連の法務部の最高責任者。高名な国際法学者。後にコロンビア大学教授。米国国際法学界の会長)。

70)ソローキン(社会学者、ティマシェフ法社会学者、ソ連のケレンスキー政府の官房長官だった)。

71)レオンチェフ(ソ連時代、1973年ノーベル賞受賞した数理経済学者。後にハーヴァード大学に移る)。

72)ペギン(ワルシャワ大学卒業後政治家となり、元イスラエル首相で、エジプトのサダト大統領との間に和平を実現。1978年には両者揃ってノーベル平和賞に輝く)。

73)カウフマン(ソロモン・ブラザースの出身、相場の神様と言われる)。

74)ルービン(ゴールドマン・サックス出身、クリントン大統領時には財務長官だった)。

75)ドラッカー(経営学の長老)。

76)ロスチャイルド(欧州一の金融業者)。

77)バイロン(世界的に知られた詩人)。

 以上、ユダヤ人エリートを列挙したが、作者は「あとがき」で、「幾多の国境線を越えつつ共同体の中のマイノリティとして暮らしながら自分の能力、才能を磨き、生かしてきたユダヤ人は日本人の生活感覚の対極にある。外国を固定した国家イメージで眺めがちな日本人には視野に入ってこない局面」との言葉があるが、私が旅行業者の目でアメリカ、カナダを歩き回ったときに視野に入ったものがユダヤ人の全貌を捉えきれなかったように、学者としてしかユダヤ人との交流のない作者にも、ある意味での視野狭窄があるのではないか。

 ただ、「ユダヤ系社会科学者たちは多くの人材を輩出、例外なく波瀾に富む人生経験によって理論と実践に重みをもたせ、専門領域における進取性や複眼的かつ実際的な問題意識を併せもっていた。ただ、これはユダヤ人知識人の生来的な特質であるとは言えない。現代のイスラエルの若者の態度にはかつてのアシュケナージの体験からは想像もつかないほどの変化や相違があり、平凡さや無気力な姿勢には失望を禁じえない」との言葉には傾聴する価値がある。

 「価値がある」と言った意味は、個々人がばらばらに散っていたからこそ、それぞれ己を磨き、学び、それぞれの土地で必死の覚悟で、トップに位置する人間に接近あるいは接触し、高額の報酬が得られる業務を獲得する努力を怠らなかったというだけで、ひとたび自国の建設が成り、一国に生きるという意識が芽生えると、人間という生き物は、他の西欧諸国の人間と大差がないということを立証しているという意味においてである。そのことは、例えば、日本で生きる日本人とアメリカで生きる日本人とのあいだには、同じ民族とは思えぬほどの乖離、相違があることと相似していると、私は思量する。また、土地の支配者に取り入り、それなりの地位を得て、身の安全を図る手法は、過去の長い歴史のなかでユダヤ人が採った常套手段であり、生き残らんための窮余の策であったことは理解している。

 とはいえ、株式市場を開設したのも、初めて株式市場を開設し、投資をしたのも、投機というものを考案したのも、すべてユダヤ人である事実から、ことに最近の石油の異常な高騰を鑑みるにつけ、「ユダヤ人は守銭奴である」「ユダヤの信仰対象は金銭である」との発言が脳裡から消えずにある。石油の投機に始まり、穀物の投機がそれに続き、価格が実態をはるかに超えて取引される相場が現実に存在する以上、産油国も穀物を多量に備蓄する国も、輸出量を減らし、さらなる騰貴を期待するのは、食に困り、飢餓に陥る民族が世界のあちこちに発生する事実を認識しながらも、金のために、自らの懐を増やすために、意に介さない人間の性悪さの証を見ているようだ。

 こうしたシステムをつくったのもユダヤのエリートたちであり、ユダヤ人が必ずしも人間が一般的にもつ心情にベースした経済活動をしているわけでないことが瞭然としており、そのあたりが現在もなおユダヤ人を嫌悪する感情に結果しているのではないか。アメリカの自由放任主義の経済が異常な投機熱を煽り、金融恐慌を惹起し、瓦解した責任は金融業社に席を置く人間だが、その大半はユダヤ人であっただろう。


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