ユダヤ人とローマ帝国/大澤武男著

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ユダ

       

  「ユダヤ人とローマ帝国」  大澤武男著   

  講談社現代新書  2001年10月初版

 以前、本ブログで「ユダヤ人の歴史」上下巻を書評したが、私のこの民族への興味はいまなお尽きない。

 私は若い頃、レベルの低い話になるが、ツーリストビジネスを通し、米国トラベルエイジェントの人間に多く接した経験がある。 まだ日本がドルが欲しかった時代、北米地区を必死にセールスしてまわった。

 そこで知ったことは、エイジェントの相手のほとんどがユダヤ系アメリカ人であり、狡猾で、金銭に厳しく、見積もりにかかわることや支払い期限のことでは相当にいじめられた。 なんど「殺してやりたい」と思ったか知れない。 当時、ユダヤ系の人々の仕事は不動産業、貴金属商、俳優業、金融業、ブローカー、投資家などが多く、旅を斡旋する仕事もほとんどが彼らだった。また、ユダヤ系のトラベルエイジェントが扱う客の100%がユダヤ系の富裕層だった。

  著者は「古代を知ることで現代を知り、「現代を知ることで古代を知る」よすがとする考えから、本書を構想するにいたったという。 

 ユダヤ人迫害の全歴史ではなく、ヘレニズム文化と古代ローマ時代におけるユダヤ民族との接触がどう行われたかに焦点をあてて、この「人間の業(ごう)」としかいえない、あるいは「人間とはなんと救いがたき生物か」という結論に至らざるを得ない著作をものした感がする。

 特に、ローマ帝国の各皇帝がユダヤ人とどうつきあったかに焦点があてられている。

 問題は決まっている。「なぜ、ユダヤ人があれだけ、悪感情、憎悪、反感の対象となったのか、そしてある意味では、いなまお同じ状態が継続しているのか」に尽きている。

 紀元前411年、ユダヤ人のディアスポラス(各地への離散居住)はペルシャ帝国治下、エジプトではじまっている。 

 その後の、モーゼの書いた「エジプト脱出記」は有名だが、エジプト人は「ユダヤ人追放記」と命名し、それが「脱出ではなく追放である」ことを強調している。一口にディアスポラスというが、ユダヤ人の離散はすでに小アジアはもとより、地中海沿岸に広がり、ヘレニズム文化の恩恵も受け、ギリシャ語も習得しながら、ユダヤ教の原則を曲げようとはしなかった。 自国を失ったあとの中心的拠点はエジプトのアレクサンドリア(マケドニアのアレキサンダー大王の建設によるものだが、後にオスマン・トルコの台頭によって破壊されてしまう)であった。

 そのうえ、ユダヤ人は各地に散在しながら、それぞれが連係を保ち、民族としての統一性を保持し続けたことは驚異というほかはない。 もっとも、彼らのそうした連係が生んだネットワークこそが後に銀行や為替や小切手や貿易に必要な信用状などを考案するにいたるベースとなるのだが。

 ローマが東西に分割されるまえ、ユダヤへの対応はそうひどくなかった。ローマもユダヤ人を迫害すると、ユダヤ人がメシアを信じて、反乱することを知っていたからだ。 ユダヤ人とユダヤ教の根絶を目指した戦争、殺戮にローマが手を染めた時期もあるが、ユダヤ人への最初の迫害、追放はアッシリアであった。

 紀元後、ユダヤ教からキリスト教への派生は男子の割礼儀式をやめることで可能となり、かつローマ帝国に認められる素地をつくり、全西欧へと拡大、信徒を獲得するきっかけとなった。

 ユダヤ人の儀式のなかで最も嫌われたのは「割礼」である。 「割礼」とはペニスの包皮をカットすることで、それは古代エジプトにもあったし、イスラム教にもあるが、一つは、効果はともかくとして、清潔の保持、形の保持、多産効果、情欲の抑制だったという。(ちなみに、イスラム教もユダヤ教の派生であり、偶像崇拝を否定する点も、食事制限も、休息日も(曜日を換えてはいるが)同じように存在する。 ユダヤ人の聖なる場所がエルサレムであるのに対し、イスラムはメッカである。(2006年1月に、メッカの一ホテルが崩壊したというニュースがあった)。

 「割礼が情欲の抑制」と書いたのは、割礼することで陰茎が剥き出しになり、そのことで射精が早められ、女性の側がオーガズムに達するまえにことが終わることを目的とした。

 キリスト教徒はイエス・キリストを十字架にかけ火刑したのはユダヤ人であり、「ユダヤ人はキリスト殺し」だとしきりに宣伝するようになる。これは明らかに事実の転嫁で、殺人の策謀はユダヤ人にあったものの、実際に捉え火刑に処したのはローマ人である。 にも拘わらず、キリスト教徒は「ユダヤ人がキリストを殺した。ゆえに、ユダヤ人の存在はその事実の生き証人であり、生かさず殺さずの人生を歩ませるべきだ」という思想がキリスト教内に生まれる。

 ただ、改宗を迫られたユダヤ人のなかにはキリスト教徒になった人も少なくない。 そして、ユダヤ教から生まれたキリスト教を旧教から切り離す作業が必要になる。ユダヤ教を論駁することで、ユダヤ教徒を増やさず、キリスト教のみが信者を増やす努力をした。 まず、ユダヤ民族以外の民族が嫌悪する「割礼」をやめ、ユダヤ人の「一夫多妻主義」を否定することからはじまった。 ちなみに、一夫多妻主義は現在もイスラム教徒間に受け継がれ存続している。

 とはいえ、紀元前200年、300年時代は、ユダヤ教徒よりもキリスト教徒のほうが迫害された。

 そのことは4世紀にローマ帝国のコンスタンティヌス帝がキリスト教を正式に公認するまで続く。公認されて以降、キリスト教は西欧各地に信者を獲得するための宣伝、宣教が可能になった。 と同時に、キリスト教会からユダヤ民族へのいじめも公然と多発する。

 西ローマ帝国滅亡後、東ローマ帝国「ビザンツ」時代に入ってから、キリスト教会によってユダヤ人差別、隔離の意図が一層強くなる。ちなみに、ビザンツは現イスタンブールのことで、イスタンブールのまえはコンスタンティノーブル、そのまえがビザンティオンだったからで、それがビザンツ(場合によってはビザンチンともいう)の名の由来である。

 6-7世紀、ユダヤ人への改宗強制が各地で起こる。

 ユダヤ人への敵視、あるいは反ユダヤ的言動はユダヤ人が前6世紀にバビロン捕囚から解かれたときから始まっている。その結果が地中海沿岸、小アジア各地への追放、離散であり、それが他民族との接触を生み、結果として各地で軋轢を生む。

 離散して他国に流れ込み、お世話になる立場であるにも拘わらず、ユダヤ人はそれぞれの土地に積極的に同化しようとはしなかった。ユダヤ人を受け容れた側から見れば、ユダヤ人は「自分らは神から選ばれた特殊な民族であり、割礼を行い、特別の安息日をもつ」と主張、食事にも独特の規制を加え、みずからの儀式を変えようとはせず、受け容れてくれた土地に馴染もうとせず、そうした姿勢が現地の人間に不快と反感を生み、次第に悪感情と憎悪とを招いた。(ユダヤ人の料理をコーシャー・フードという)。

 

 こうしたユダヤ人の一貫した頑固な姿勢が古代ローマ時代のみならず、それ以後各時代の迫害、差別に共通した要因となっている。

 ただ、世界に離散しながら、ユダヤ人が民族的統一を保持できたこと、結束できたことを周辺国の為政者はみな不思議がったが、かれらはユダヤ人の血をベースとした堅い絆を軽く見すぎていた。

  西ローマ帝国が滅亡したあと、6世紀、7世紀は、ユダヤ人に改宗を強制する運動が各地に強まり、キリスト教によるユダヤ教の迫害にも凄味が加わってくる。 ユダヤ人のうち、どの程度の割合でキリスト教徒になったのか、残念ながら本書には記されていない。

 現在、ユダヤ人口は世界の60億に対して、1500万人、0.0025%にすぎない。1933年のナチ政権時代でも欧州のユダヤ人の割合は全体の1%であったが、古代ヘレニズム・ローマ世界では、10%に達していた。驚くべき繁殖力と、人口増による存在感であり、離散したユダヤ人をトータルすれば無視できるほど少数ではなかったことが諒解できる。

 現在においても、世界のある場所では、ユダヤ人は必ずしも歓迎されざる客である。

 日本人ビジネスマンでユダヤ人と商売をしたことのある人なら、必ずしもかれらに関して善い印象はもっていないのが普通だ。 とはいえ、米国に暮らした日本人のなかには「人種差別なく、自分に一番よくしてくれ、友達になったのはユダヤ人だった。 そのユダヤ人は「日本人もユダヤ人ももともと同じアジア人だから」といったそうである。

 私の個人的な印象だが、ユダヤ人が憎まれた最も大きな要因は「頭脳の質の違い」、要するに、ユダヤ人はだれもが頭がよすぎ、おいしいところを全部とってしまうからではないか。

 


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