ヨーロッパ退屈日記/伊丹十三著

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書評:ためいき色のブックレビュー-退屈

  「ヨーロッパ退屈日記」  伊丹十三(1933-1997/俳優、後に映画監督) 

  1965年 文芸春秋より単行本

  1976年 同社より文庫化

  2005年3月1日 新潮社より再文庫化初版 ¥476+税

 本書は作者が1961年(昭和36年)から欧州に長期滞在した折りの体験を通じ、それぞれの土地で見聞したもの、建築、絵画、映画、音楽、アルコール、料理、服飾、言語、自動車などなどにつき遠慮会釈のない、ときに痛烈な、ときにナイーブな、ときに揶揄をこめた感想をエッセイとして書き連ねたもの。

 本書の帯広告に、「この本を読んでニヤッと笑ったら、あなたは本格派で、しかもちょっと変なヒトです」とあるが、この時代にヨーロッパに長期滞在できる人といえば、経済的にも立場的にも、相当に恵まれた人に限られるし、この時代の欧州と日本との文化比較を論じても、日本はこの時代以後に経済成長し、大きく変容していく過渡期にあり、単純な比較論はピンとこないし、同意しがたい。海外に渡航するときの外貨の持ち出し額に制限のあった頃であり、海外旅行などできる人は僅かな数でもあった。

 つまり、当時の比較だからこそ、滑稽であり、ユーモラスであったものが、今日の目からは折角の鋭い目が紐解く社会現象も、「そうだったんだろうな」という納得を自分に課す以外に、内容理解に達することは難しい。

 たとえば、男性俳優のチャールトン・ヘストンが箱根のホテルに宿泊したとき、「ギブスン」という料理をルーム・サーヴィスに頼んだところ、ギブスンが何かが解ってもらえず、ヘストンは仕方なく必要な材料を一つずつ挙げて注文した。ホテル側が運んできた食材を見たところ、オニオン(玉葱)を頼んだのにガーリックを持ってこられたという話が面白おかしく書かれているが、外国人旅行者をまだ多くは扱うことのなかったホテルのシェフがこうしたお粗末をやったとしても不思議はないし、当時の日本のホテル(東京でも京都でも)従業員で英語をしっかり話せる人も稀だったことについて、作者は一片の同情心も見せていない。だいたい、ルームサービスでアラカルトメニューを提示できるホテルがあったとしたら、それこそ信じられないことだ。一般的に、ルームサービスメニューはフィックスされているのが常識)。

 一方で、「ロンドンのデパートの店員は品物を紙で包装することが満足にできず、そのうえ紐できちんとくくることもできなかった」というのは、「銀行に働くドイツ人が不器用で、計算機を使ってすらまともに計算ができない」というのと同じで、いずれも現在なお改善されてはいない。日本人の手は器用だし、お釣りの計算など暗算で簡単にやってみせるから、欧米での釣銭の出し方は滑稽に映る。

 とはいえ、「日本では人間が集まるところ必ず醜くなる。美しい海岸線も、ある場所が海水浴場になると、あっという間に薄汚くなる。ひるがえって、パリの美しさは新しい建築物が旧来の建造物のありようを無視せず、それに合わせて建築されることで美観を損なうことはない」との指摘は、現在でも同じことが言えるだろう。

 アメリカ人観光客がローマの遺跡を見て、「ローマはまだ戦災から復興していない」と言ったり、ポンペイの廃墟を見て、「こりゃまた徹底的に爆撃されたもんだな」と言ったという話は、いかにもアメリカ人にありがちな滑稽味があり、アメリカ嫌いのフランスをはじめとする欧州で嘲笑を含んだ話題となった経緯は容易に想像できる。アメリカ人の家庭に絵葉書といったレベルの風景画が飾られていることが多いけれども、フランス人の目にはアートに関してセンスの欠落した趣味に見えるだろう。

 著者は5歳時から英語の勉強を始めて、それなりに堪能らしく、本書にも英文が頻繁に出てくるが、「アメリカ英語の鼻にかかった発音」に嫌悪感を露わにしているが、私に言わせれば、鼻にかかっているのはむしろイギリス英語であり、サッカーのベッカムのかみさんのしゃべる下品な英語は、とても聞いていられない。

 料理の好きな作者から教わったことが一つだけある。私はフランス料理のエスカルゴが大好きだが、仕事を離れたあと長いあいだエスカルゴを口にしたことがない。著者は「エスカルゴというと貝のついたものというイメージを持つ人が多いが、入手できない場合、缶詰を買ったらいい。エスカルゴにおろしたガーリックを載せ、みじん切りのパセリ、バター、塩をまぶし、オーヴンに入れ、バターが沸騰してきたら、それでOK」との解説に、「よし、缶詰をさがすぞ」という気になった。

 本書には、解説者が言うように、作者の「自己表白」といった趣きがあり、人柄の良さを含め、人生そのものが垣間見えるような内容になっている。ただ、こういう時代に欧州に滞在した経験者はきわめて稀な例であろう。


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