中国的大快楽主義/井波律子著

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「中国的大快楽主義」 井波律子(1944年生)著
副題:ひたすら現実から遁走し、過剰な情熱を無用なものへ傾ける底ぬけの愚行と奇行に憂き身をついやした筋がね入りのエピキュリアンたち
作品社刊  単行本   ¥2100+税

 

 「科挙の制度が高度に整理された北宋以降、中国の知識人にとって人生の目標は科挙に合格し、官僚社会の一員となることだった。一方、科挙に不合格だった人間のなかには、科挙を軸とする社会への反発から、愚行、奇行に走る人間もいた」との話は、偉人や傑物が世に出るとき、背景として必ず真逆の人間が存在するという中国古来のパターンが想起される。

 作者が挙げた悪女、魔女は:

1)呂后/前249~180/漢の高祖(劉邦)の妻

2)則天武后/624~705/唐王朝の高宗の妻

3)西太后/1835~1908/清朝最後の皇后

4)買后/3世紀後半)/西晋の恵帝の妻

 なかで、「歴史として一般に伝えられている則天武后は残忍で、淫蕩で、政権志向が強く、殺人も平然でやってのけたというものだが、作者は「この皇后くらい優秀な政治家はいず、世の中を変えた逸材、世の男たちはその事実に反発して、後世に悪女に仕立て上げた」と明言するが、7世紀前後の歴史に確実にそう断言できる資料でもあるのだろうかと疑義を感じた。ただ、中国人が誇張をことのほか好む民族であることは了解している。

 中国の歴史は、王朝あるいは支配者が代わるたびに、新しい政権が古い政権の残した宮殿、城、文物、資料など焼き尽くすのが通例で、そういう行為に他民族には理解不能ともいうべき快楽を味わう民族であることは、「Revolution」(革命)という言葉をことのほか好む性癖からも推測できる。したがって、文献や資料が後世に残る可能性はきわめて低いと憶測せざるを得ない。つまり、中国の古い話は、例外なく、そのまま信頼に耐えるものではないという認識が私にはある。

 「紀元3世紀前後に生きた王は少年時代に継母から何度も殺されかかったにも拘わらず、死ぬまで『孝』を尽くしたという話」は、嘘くさく、胡散くさい。もし真実だとしたら、そういう人間を私は信頼しない。

 「英語のミステリーは中国の怪異小説に当たるが、中国には、昔からおびただしい怪異小説がある」と言われる。私の脳裏には、仰々しい嘘と虚飾と、すぐ虚偽がばれるような内容の小説しかなく、決して感銘を受けるような内容の作品はないだろうという推測が渦巻いてしまう。荒唐無稽、あり得ない話が多く、評価の対象にすらならないという確信。とはいえ、日本江戸期の「ろくろく首」と大差のない、つくりものであって、いかに怖がらせるかに力点の置かれた読み物に過ぎないというのなら、格別の意見はない。

 中国の文献や小説、ことに古いものへの信頼が芽生えないのは、「三国志演義」「水滸伝」「西遊記」といった代表的な作品が日本では講談本として子供時代に読む機会があり、仰々しいまでの過剰な誇張に辟易した記憶が底辺にあるからではなかろうか。

 むしろ、中国は「何でもあり」の国であり、食にしても、猿の脳味噌、人間の胎児(一人っ子政策の時期に堕胎した病院から貰い受けて)、ミミズ、ゴカイ、蝉まで、何でも食ってしまう民族なのだから、美味追求の精神を書いて欲しかった。

 作者が「中国人は儒教を軸としながら、生の喜びを尽くそうとする道家、老荘思想を用い、普段に儒教という固定軸に揺さぶりをかけ、単一の価値観に風穴をあけてきた」という言葉には感銘を受けつつも、「儒教を国是のごとくに大切に扱い、それに拘泥しつつ生きてきた朝鮮民族にとっては、いいツラの皮ではないか」という思いが抜きがたく残った。

 正直に言うが、本書は私が期待した内容とは全く異なる一書だった。


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