人はなぜ戦いに行くのか/曽野綾子著

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人はなぜ


  「人はなぜ戦いに行くのか」  曽野綾子著  

   小学館  2004年6月初版

 かつて「賢人会」というのがあった。

 だれが賢人とやらを選んだのかは知らないが、私は会の名にも、その会のメンバーになった御仁にもむかついた。「華氏」という映画を創った監督がTVのまえでブッシュ大統領を名指し、「Shame on you!!」といったが、私もこの賢人会とやらに「恥を知れ」といいたかったことを記憶している。「有識者」というならまだしも「賢人」といわれてメンバーになる神経に疑問というより無神経を、という以上に不遜を感じたからだ。

 その会のメンバーの一人が本書の著者であり、私は本書に出遭うまで、この著者の作品を手にしたことはない。むろん、意図して読まなかった。それが、たまたま書店で首記タイトルを目にし、長年の忌避感を忘れ、思わず入手してしまった。

 ところが、読みながら、著者の発想やものごとを洞察するアングルに、いちいち「ごもっともです」「なるほど」「おっしゃる通りです」などと呟いている自分を発見して、驚いた。

 著者が作家であることはよく知っているが、本書からのイメージでは「思想家」である。著者はものごとをはっきり、かつ厳しくいいすぎるから悪くいう人も多いと聞いたことがあり、その評判にも納得がいったが、同時に「たいした人である」とも思った。近年話題になったが、彼女はペルーのフジモリ大統領を自宅に招き、日本滞在中のお世話をしたというが、その心根のうちには彼女らしい理屈と沽券と矜持があったのだと思っている。

 ただ、「どうせそこまで触れるのなら、もう少し踏み込んで」といった隔靴掻痒感がわずかながら残った。たとえば、「刑務所に関するデータに触れるのなら、ご自身頻度高く足を運んだアフリカやインドネシアの刑務所も訪ねて、その実態についても書いて欲しい」などである。

 もう一つ、遠慮せずにいえば、著者のキリスト教徒としての自負心はちょっときつい感じが禁じえない。

 私が無神論者だからかも知れないが、世界史は「これまでいちばん人を殺したのはキリスト教徒である」と教えているし、人にものを与える行為は善意から出たものであろうと、ときに侮辱にもなると思うからだ。私の理解が間違っているのだろうか?

 アフリカへはこれまで多くの先進国が大量の支援をしてきた。かれらはそれら文明の機械を使いきれないばかりか、すぐほったらかしにし、さらなる援助を口をあけて待つという姿勢をとる。 アフリカに金をばら撒くのもよいが、せめて国際連合の理事国に日本がなれるような支援を行うべきだし、それができないのなら、支援の先をいま日本国内で困っている人に向けるべきではないか。


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