人間失格/太宰治著

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

「人間失格」 太宰治(1909-1948)著  集英社文庫
1990年11月 初文庫化   ¥260

 

 太宰には首記の作品のほか「晩年」「斜陽」などの名作があり、現代でも若者に読み継がれていると聞く。

 学生時代、太宰の「晩年」のページをくったとたん、「死のうと思っていた」という言葉が目に飛びこんできて、それに痺れたものの、他の作品を読むうちに作者への印象が変化したことが思い出される。

 今回、久しぶりに太宰の作品を手にして思ったのは、解説を担当した小林光一さんには悪いが、「女の腐ったようなやつ」というのが正直な印象だった。

 私なりに考えたことは太宰が恵まれた家庭で「おぼっちゃん」として育ったこと以上に、女ばかりに囲まれて育ったこと、そして、下男下女に下半身のことで悪いことを教えられたことがトラウマとして脳裏に残っていたのではないかという憶測に結びついた。

 本ブログでも紹介したが、「男女七歳にして席を同じゅうせず」というのは少年を少女から保護するために採られた適切きわまりない手法で、少年よりはるかにませて、そのうえ物事を尽きつめて考えない少女らに囲まれていたら、女に対する男としての姿勢も矜持も確立できず、女がもつ混沌の世界で翻弄されたのではないかという気がしてならない。

 そういう少年時代の経験が、女に対しておどおどする姿勢をとらせ、それがかえって女心を刺激し、母性を鼓舞し、結果的に多くの女と関係する結果を招く。にも拘わらず、どの女とも結婚するでもなく、いいかげんな関係で長続きしない。もう一人の解説者、大田治子は太宰の娘と名乗っており、父親の遺した文章から必死になって父親というものを理解しようと努力しているが、涙ぐましいほどだ。

 「女の狡猾さは、その行為に耽溺した夜と、朝になって起床した時点とに繋がりがなく、というよりきっちり切断されており」、太宰はその事実の不思議さを飲み込めず呆然とする場面が印象的だ。こういう点に執心したり、気づいたり、神経質になったりするのが太宰の繊細さというものだ。

 本書は文体としてもやや稚拙であり、少年の心の葛藤そのものは存分に伝わってくるけれども、結局は生をまっとうできる人格的な力をもてず、世間という得体の知れない場所でもがき苦しみ、はるかなむかしから「死」を念頭においた生き方をし、「死」のチャンスを待っていたかのように思われる。それにしても、一人の女と情死を共にし、自分だけ生還したという話は現代のわれわれには不可解で、不快きわまりない。

 私たちが若いとき太宰作品にのぼせあがった根本のところには、若者特有のニヒリズムと感傷と甘さがあったのだと思われる。

 私の縁戚に、むかしのことだが、慶応大学の生徒(私よりずっと歳上の男性)がいて華厳の滝に身を投げて自裁した男がいる。遺した書には「ホーレショーの哲学は万有の真相を一言にして尽くす。曰く、不可解」とあり、当時の新聞に載ったと親から聞いた。むろん、私個人は面識がない。

 若い時代は、だれもが純粋であり、何事に対しても正面から対峙する。「人生とは?」「人が生きることに意味はあるのか?」といった答えようのない厳しい設問にすら、真っ向から解答を見つけだそうとする。大抵は、「設問に答えるにはまだ少し時間がかかるから、いま少し生きてから考えてみよう」と、なんとか自分をごまかして、生を繋げ、そのうちに就職、結婚、出産、子育て、ローンの支払いに追われ、いつのまにか、いまさら小難しい設問を脳裏に浮かべることすらしなくなる。

 本書を再読することによって、若き日の数えきれないほどの哀歓や屈辱が想い起こされた。


前後の記事

現在はコメントを受け付けておりません。

サブコンテンツ