住んでみたカムチャツカ/広瀬健夫著

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住んでみたカムチャッカ

「住んでみたカムチャツカ」
広瀬健夫(1932年生)著
東洋書店より「ユーラシアブックレット#149」として2010年2月20日に初版
¥600+税

 

 著者は1997年から9年間、カムチャツカの国立教育大学の要請を受け、日本語と日本文化とを学生に教えた経歴の持ち主。居住したのはペトロパブロフスカ市。ただし、受け持った生徒の数は少なく、ために家族的な触れあいも持て、教えることにも最初の1,2年間は別にして、さほど難渋しなかった。

 ロシア人の留学生を受けるシステムも日本側にあり、主に教育大、信州大、北海道教育大学などが担っている。

 カムチャツカといえば、日本列島の北に繋がる大半島、作者が言うように土地の成因は互いに相似の部分が多く、火山が多いことも、地震や津波が多いことも、温泉が多いことも、環太平洋火山帯という大きなベルトのなかに双方が入っていることから当然といえば当然の相似。

 最高峰の火山はクリュチェフスキーで4750メートル。2009年に大噴火したのは火山群の最北部にあるシベルーチ火山(3283メートル)、溶岩を流し、黒鉛を巻き上げた。

 カムチャツカは日本列島とほぼ同じ面積で、中央を数本の山脈が通り、最大の河川はカムチャッカ川で全長750キロにおよぶ。ペトロパブロフスカは北緯53度に在り、ロンドンの52度より北で、冬の寒さは並大抵のものではない。

 冬が半分、夏は短く、11月から気温が下がり、中旬には降雪があり、これが4月中旬まで続く。とはいえ、市内の全戸に、直径1メートルほどの給湯管を通じて供給され、室温が恒常的に25度に保たれるため、快適。

 とはいえ、現地人のうち、男性の平均寿命は59歳で、女性は73歳という年齢差は、男がウォッカをがぶ呑みするからではないかと憶測させられた。夫に先立たれた女性の多くが教会に足を運ぶという。

 かつて、ソ連の宇宙飛行士、ガガーリンが「地球は青かった」と帰還後に伝えた言葉が鮮明に今も思い出されるのだが、本書によれば、教育現場の実態や図書館のあり方など質の低さを強調されると、双方のもつ科学性にも教育レベルにも互いにマッチしない大きなずれがあることが理解され、ロシアという国の為政者の姿勢に首をかしげたくなる。

 「ロシアがカムチャツカを併合したのは300年前」という話で咄嗟(とっさ)に想起したのはかつて司馬遼太郎氏が「ロシア人は西欧の貴婦人が高値で買ってくれる動物の毛皮を求め、西からシベリアの東方面へと無人の野を行く如く侵攻、ロシアに抵抗できる部族は清帝国以外にはなく、その行動自体がロシア領の拡大化に結果した」と述べていたことである。「これほど簡単に領土を広げた国はロシアをおいてない」といった表現だった。

 1853年、トルコとの間にクリミア戦争が起こると、英仏両軍が艦隊をベーリング海に侵入させ、アパチャ湾内でロシア側の防衛部隊とのあいだに砲撃戦が行なわれ、結局、双方に多くの犠牲が出て、英仏は撤退した。(アパチャ湾は不凍港で、緯度的にもっと低い港でも結氷する港があるのに、アパチャ湾が不凍港であることは評価に値する)。

 日露戦争時にカムチャツカ半島は日本軍の侵攻ターゲットにはなかった。

 1946年、47年には約1万の朝鮮人がカムチャッカに渡り、土木作業、漁業などに従事したが、後年、帰国せずにカムチャツカに残った人が少なからずいたという。(北朝鮮人ではないかという憶測)。

 カムチャツカは州全体で1989年には47万2千、民族別ではロシア人38万2千、ウクライナ人4万3千、先住民1万2千(先住民のなかにはコリャーク、エベン、チュクチ、イテリメンなどがいた)。以来、人口が減り続け、現在、トータルでは40万を割り込んでいる。

 私がカムチャツカに関して知っていたことといえば、火山が多いというくらいであったが、本書には上記した以外に、食事、食材、温泉、レーニン広場、ゲイゼル渓谷、一般市民生活などにも触れていて、この地に関心のある方にはがっかりしない内容となっている。写真もそれなりに理解を援けてくれる。


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