博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォレスの生涯/ピーター・レイビー

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ウォレス

「博物学者・アルフレッド・ラッセル・ウォレスの生涯」 ピ-ター・レイビー(イギリス人)著
原題:Alfred Russel Wollace. A Life
訳者:長澤純夫/大曽根静香
新思索社 単行本 ¥4,500+税  2007年10月初版

ウォレスは1823年にイギリスで生まれ、1916年、第一次大戦中に逝去。時代は、ヴィクトリア王朝の全盛期。

ウォレスという人物については、ダーウィンが「進化論」を書くにあたって「自然淘汰」「環境適応」などの言葉を創造する上で、手紙でヒントを与えたとか、あるいは同じ内容がすでにウォレスの思索のなかに存在したとか、そのような評伝があったことを知っており、そのことの真否について興味があり、入手した。

ダーウィンにせよ、ウォレスにせよ、フンボルトの書いた「新大陸熱帯地紀行」から大きな影響を受けたことは事実。

ダーウィンがビーグル号で世界を一周し、途中エクアドル領のガラパゴス諸島に寄ったことで閃くものがあり、帰国後はイギリスに在って動物の観察と思索と著作に専念したのに比べ、ウォレスは一度は南アメリカへ、二度目はマレー半島、ボルネオ、インドネシアのバリ、ロンボック、セレベス、ジャワ、スマトラのほか、ニューギニア周辺の島、ジロロ、ケイ諸島、アルー諸島、ティモールなど、動植物、特に昆虫と野鳥の採取、収集に力を注ぎ、それを本国に送って販売、生計の糧としながら、学者として動植物の起源を考えていたらしい。

インドネシアのバリ島とロンボック島とのあいだに、現在地図上に記されるウォレス線は、動植物の歴然たる相違がバリ島以西とロンボック島以東に存在することをウォレスが発見した功績に依拠しており、これによって、彼に「動植物の地理的分布」という概念が芽吹き、帰国後には書物となって開花する。これはちょうど日本の間宮林蔵が世界的な謎として世界地理の完成を阻んでいたサハリンと大陸とが繋がっているのか否かを、酷寒の地でビタミン不足を昆布によって補い、黒龍河にまで遡って探検し、現在も「間宮海峡」として地理に残っている偉業とは、ある意味で相似の関係にあると言っていいだろう。(ちなみに、ベーリング海峡はロシア人の名前から命名された)

学会がウォレスの当時の手紙を見る限り、ダーウィンの「種の起源」は明らかにウォレスの示唆に負うところ大であることを主張しても、ウォレス自身にこだわりはなく、帰国後に、動物学会や英国鳥学会連盟の会員に推挙されたことを歓迎し、むしろ心霊術とか霊媒師とかとの関係を深め、「近代心霊主義の擁護」とか「奇跡と近代心霊主義」などというタイトルの論文を発表し、趣旨の異なる方向へ言動が移っていく。そのことが、彼の学者としての地位、名誉を著しく損ない、学会に職を得ることに難渋する結果を招く。

ウォレスの関心は多岐にわたり、「土地は国有制度にし、万民に人間らしい生活を保証すべきだ」との言葉を至るところで発言する。人柄の良さに疑問の余地はないが、彼の言動には度し難いブレがつきまとい、専門分野にだけ集中せず、間口を広げすぎたことが、どの分野にも明確さを欠くこととなったように思われる。つまり、ウォレスは世慣れた社会的言動や人間関係を築くことが苦手で、幼児性をあわせ持った人物だった。

とはいえ、ダーウィンは一環して、ウォレスの味方であり、支援者でもあった。ダーウィンの懸命な奔走、粘り強い交渉の結果、ウォレスは58歳になって、ようやく王室から年額300ポンドの年金支給を得る資格を獲得した。

現地踏査の折り、オランダが植民地化したインドネシアとイギリスが植民地化した土地の人間管理などを比較し、「イギリスは植民地の未開民族に対し即座に自分たちの文明を押し付け強制したが、オランダはそういうことをせず、植民地民族の生活基盤には介入しなかったため、人々はより平和で快適な生活を継続でき、ために、宗主国に対し協力的であった」と語っている。戦後のアメリカ的手法、押しつける手法はイギリスからの遺伝的踏襲のように思われる。

ウォレスと同時代、1865年にはメンデルが「遺伝の法則」を発表しているが、それについては反応していない。

作者はウォレスの遺した書簡、ノートブック、論文、新聞記事、小冊子、著作など、おびただしい資料をベースに、この大作を書いたのであろうが、展開がフラットで、起伏に乏しく、あまりに淡々と、現地での採取、学会での発言や論文、多くの人間関係、生活、家庭などに触れたため、読者にとっては読書の継続に苦しむことになり、私にとってもしばしば睡眠薬的効果を発揮し、読了するまで5日もかかってしまった。


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