古代殷王朝の謎/伊藤道治著

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古代殷王朝の謎

「古代殷王朝の謎」  伊藤道治(1925年生、専攻は中国古代史、現在は関西外語大学教授)著
講談社学術文庫  2002年11月初版

 

 私は高校時代、漢文が好きだった。短い文章の中に多くの示唆を含蓄した文字の羅列に痺れ、教師からは中国は夏、殷、周と続く、5千年の歴史を持つ国であり、日本に比べ、歴史の厚み、重み、ともに大きな差があると教えられ、瞠目し、かつ憧憬した。

 ことに、「殷」という文字には、得体の知れない、名状し難い魅力を感じ、今回20冊ほどまとめ買いをしたなかから真っ先に飛びついたものの、古代の実態はいまなお謎に包まれ、総じて、私の期待を裏切るものだった。

 理由は簡単である。当時の墳墓がほぼ百パーセント盗掘されていること、資料として採用できる対象が甲骨文や卜占の文字に依存せざるを得ない状況が継続していることだった。

 作者本人も、「かえって読者には、古代史に対する不信感を抱かせる結果に終わる可能性」を冒頭の部分に披瀝している。

 内容からこれはと思う部分を以下に列挙する:

1.調査手段は殷代(商とも呼称される)の人が作った青銅器と、亀の甲や牛の肩胛骨に刻まれた甲骨文、つまり青銅器と文字が存在することによって、その時代に文明が存在したことが裏づけられるが、殷の時代を初期、中期、晩期と分けると、青銅器は晩期にしか発見されず、それ以前は新石器時代だったと推測される。

2.殷の成立がおよそ紀元前1600年に大乙によって興され、紀元前1050年に滅びるまで550年続いたとしても、いわゆる文明国家として認められるのは晩期といわれる数百年間の頃で、殷の初期、中期いずれも石器時代だったと判ぜざるを得ない。

 (とすれば、5千年の歴史というのは誇大な表現で、文明国としては3千年弱の歴史というのが真実らしく、夏などという国はでっちあげられた国ではなかったのではないかとの説に接するにおよび、私のかねてから憧れていた中国の歴史が音を立てて崩れ落ちていくのを感じた)。

3.甲骨文のほとんどは卜辞(ぼくじ)と呼ばれるもので、文章の99%は卜占の記録で、こうした文字を書きこまれた亀甲や牛の肩胛骨の断片が今日まで約10万個発見されている。(現在ではもっと発見されているだろう)。この文字は現存する最古の文字で、種類は2千2百、半数は未解読、解読されたものでも、その意味については諸説があって、確定していない。また、青銅器同様、こうした文字が発見されるのは殷の晩期に限られている。  

 (中国の文字が全国的に統一され、同じ文字を使うようになったのは紀元3世紀の秦の始皇帝からである。一方、日本は中国の唐の時代に派遣した遣唐使が持ち帰った漢字を利用しつつ、仏教後であるサンスクリット語の発音を用い、日本語を文字化した)。

4.殷の領土は安陽に拠点を置いていた時期が長く、領土的に最大に拡大された時期でも、秦の始皇帝が征服した地域に比べ、およそ3分の1といったところ。

5.殷王の最大の仕事は占いにあり、占いがすべての行事にかかわっていた。卜占の長としての権威こそが王権を維持できた根元だった。(日本の卑弥呼もその延長線上にあるのではないか)。この時代に神像のようなものはなく、この点はシュメール、チグリス・ユーフラテス両河川地方の初期王朝時代に近似していた。また、印象の類もなかったが、アニミズム(自然信仰)はあった。

6.霊の祟りを恐れるという、日本の各戦勝者の性癖と同じものが、殷の時代にもすでに認められる。(霊に対する畏怖が祖先崇拝の習慣を生んだという意味では、現在の沖縄での風習とも酷似している)。

7.甘粛の竜山文化にも斉家文化にも、共同墓地のなかに氏制度から大家族制度に基づく祭場が残されている。

8.殷の始祖は「俊」だとされる説があるが、これは伝説上の聖天子「舜」とも通じる可能性はある。(むろん、こじつけの感は拭えない)。

9.(本書に1期から5期までの区分が出てくるが、それぞれの年代が不明で、このあたりの説明がよく解らない)。

10.王位の継続が直系ではなく、兄弟間で行われた時代から、王朝に大きな変化が生じたと推定される。王位継承の争いの芽が生じ、内部的危機を喚起。王権の衰微が始まる。この頃から、王による遷都がしばしば行なわれる。

11.最後の王には大群をもよおす力がありながら、背後から周の圧力によって瓦解したのは複雑な集団間の内部分裂が生じていたことを暗示している。「酒池肉林にうつつを抜かしていた」とかいう説明があるが、これは中国人の得意とする誇張である。

12.殷文化の中期には、階級の分化が次第に顕著になってきたが、そのことが貴族と民と権威者とのあいだに利害の衝突を生み、そこに殷王朝の構成の弱点と脆弱性がみられる。(紀元前に成立した王朝に欠点や短所があったとしても納得がいくし、紀元前に文明が成立した事実にこそ価値がある)。

13.殷時代の墳墓はどれもが盗掘されてはいるが、それらに共通するのは多くの殉死者があったことで、ほとんどは敵の捕虜で、いずれも斬首され(多い場合は50体、100体)、俯身葬が多く見られる点である。

14.鄭州で発見された殷代中期といわれる城壁は西壁の長さ2000メートル、南壁1750メートル、東壁1725メートル、北壁1720メートルの規模があり、ここには王宮、宮殿のほか、青銅器の製作所、製陶窯、技術者の住居もあったであろう。

15.甲骨文の文章や、語の構成がどのような方法で行なわれ、当時の人々がどのような意識で文字と接していたかなどは不明である。こうした点が明確にされない限り、文字も文章も解釈は個々の研究者の恣意的な想像、推定によって行なわれる危険性が否定できない。

 今後、新しい発見があり、新しい説が持ち上がり、新しい素材が出土することになれば、「殷」という謎の多い文明がその実態を赤裸々にされる日もくるであろう。なお、作者による、「文明とは少なくとも青銅器と文字をもって初めて文明と呼ばれる」ことを銘記しておく。


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