司馬遼太郎が考えたこと(4)/司馬遼太郎著

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書評:ためいき色のブックレビュー-司馬4

  「司馬遼太郎が考えたこと」(4) 司馬遼太郎(1923-1996)

  1968年9月~1970年2月までに雑誌、新聞、週刊誌などに掲載された随筆を纏めたもの。

  2002年1月 新潮社より単行本 初版

  2005年3月1日 同社より文庫化初版  ¥509+税

 かつて、この作家がデビューした頃、上梓される作品群に翻弄されるように読み継いだことを想起させられる。それほど、どの著作も魅力的だった。

 ただ、あるときを境に、作者の描く登場人物が極端に色づけされ、人物像としては判りやすくはなっているが、単純化が過剰で、描かれている人物像がそのまま真実の姿を表しているのかどうかについて、少なからず疑問を感ずるようになった。以来、本ブログにも書いてきたが、この作者は小説家であり、歴史家ではないものの、歴史についてもそれなりの造詣の深さを身にしつつも、百パーセントの信頼を置くことには無理があるという認識に至った。

 以下は何十とあるエッセイのタイトルのもとで書かれた本書から、私個人の関心を惹いた点に絞って「   」内に列記し、私見があれば(   )内に併記した。

 「日本に国家という重いものは長期にわたってなかった。日本に国家というものが人々のこころに重きをなしたのは千年の歴史のなかで明治維新後わずかに80年である。戦後はメッキが剥げ、もとのもくあみに軽くなり、再び国民としての意識が消滅した印象すらある。日本が国歌というものをもったのも、明治維新後であるが、戦後は国家も国旗も軽視されている」

 (平和ボケが60年余も続いただけでなく、調整制度もなくなると、人間、ことに男は軟弱になって女性主導型の社会に変貌する。この60年、女にとって社会進出しやすい条件が電化製品から始まり、余った時間を労働に充て、経済力を得るにつれて立場も強くなり、夫の家族と一つ屋根の下での暮らしを嫌悪、核家族化を推し進め、そのためにそれまで自家が保育所でもあった機能を失い、少子化を招いた。女が主導する社会形態が良い社会をつくるとは思えない)。

 「江戸幕府の小心さは東海道や中仙道はもとより、日本全国を繋ぐ道路を狭くつくり、大井川などには橋など架けず、各所に関所を設けたことに表れている。また、薩摩を懼れるあまり、熊本城、姫路城、大阪城、名古屋城を万が一の抑えとして考えていたこと。さらに、外港にもそれは表れていて、はじめは伊豆の下田を開いたものの、あまりに不便なために三浦半島の浦賀に置いたが、これにも不便がつきまとい、神奈川という漁村を開いたが生麦事件(イギリスのヒュースケンが薩摩藩の行列の前を馬で通過し、その場で惨殺され、薩英戦争の原因となった)が起き、東海道が神奈川を通っていることを配慮、結局、僻村の横浜を開港することに変更、決定した。ために、横浜は過去の歴史からは考えられないような殷賑(いんしん)の街と化す」

 (北からの驚異に対しては、親藩の会津藩と水戸藩のほかに日光に東照宮を設けることで精神的な抑えとしたこと、参勤交代で常時人質をとったことも延長線上にある。全国に大中小の自治を担当する藩がそれぞれ武士を抱えて存在する以上、そこに国家という意識が芽生える素地はなかったであろう)。

 「政治家が国政よりも自分が選出された地方の地盤のために働くといったやり方を戦後の自民党はずっとやってきたが、江戸時代の藩を軸とする政治姿勢から一歩も出ていない。だから、議員は利権代表となって、国家予算の分捕り合戦にも霞ヶ関の官僚たちと一緒に手を染めた」

 (政治家が国政に携わって働いているといった印象が希薄なのは、票田への配慮ばかりに追われているからで、この悪習を選挙と切り離すことができなければ、今後も永遠に継続されるだろう。沖縄選出の代議士が土地の選挙権をもつ人々に対し、米軍基地の県外移転を口にすれば、それ以上に受ける種はないと判断するのも当然の理屈)

 「信長は日本の歴史のなかで超絶した存在であり、平安時代からの公家社会が培ってきた伝統、文化などには一顧だにしない強さがあった」。

 (対照的なのが、家康を若いころに人質にした今川義元で、この男は公家かぶれしてお歯黒をし、眉を剃り、白粉を塗りたくって、飽食に肥満し、出陣時には御輿に乗って足軽にかつがせ、ために桶狭間ではあっさり織田の兵士に斬られてしまった。また、信長を暗殺した明智光秀も公家かぶれしていた一人)。

 「日本人が戦後平均身長が伸びたのは事実だが、それでも世界的な平均値から見たら、中国人よりも、韓国人よりもチビである。これは長期にわたる日本人の食生活が影響しており、食肉の習慣が欠如していたことに原因がある」。

 (日本では長く「四足を口にすると、四足の子がうまれる」とか、「獣の肉をくらう者には虫が湧く」とか、非科学的な迷信が固定観念として連綿と受け継がれてきた。明治維新を迎えて、はじめて多少の変化があり「ビフテキ」という命名がされはしたが、牛肉を安価に提供できるシステムがなく、動物の肉が庶民の口に入るまでには太平洋戦争後を待たねばならなかった。欧米人と日本人の体格の差は肉食か魚食かの違い。ただ、過剰な肉食は肥満を招く)。

 「19世紀、日本の新政府は留学生を専らフランスに送ったが、当時のフランスはナポレオン三世の時代で、留学した日本人らは例外なく侮辱され、差別待遇された。ところが、隣国のプロシア(ドイツ)と普仏戦争が始まり、フランスが徹底的に打ちのめされるのを目に、日本人留学生は自分らを辱めたフランス人を嘲笑しつつ、フランスの市民兵として戦い、度胸なら負けないところを示したらしい。戦後は、日本政府はフランスの軍隊方式を棄て、ドイツ軍隊方式を学ぶことに方針の転換をした」

 「日露戦争に勝利したときを境にして、日本人の国民的理性が大きく後退し、痴呆化し、狂躁の昭和期に繋がっていく」

 (幕府を倒した薩長が軍事を仕切っていたため、薩長中心の軍閥が出来上がり、人材の質を無視して人事を決めたことに大きな罪がある)

 「太平洋戦争の敗戦後、日本は連合軍に占領され、支配されたが、敗戦前まで日本と日本人を支配した日本軍閥に比べたら、はるかに軽い支配だった」。

 「戦後、日本人は有史以来、やっと自由になり、はじめて食える社会をもった」

 (鋭いところを衝いているが、この事実が日本人を平和ボケへといなざったのも事実)。

 (ほんの一時期、日本社会を騒然とさせた学生運動について、著者は再三筆を煩わせているが、著者が心配するほどのこともなく、この運動は知らぬまに自然消滅して、多くの人々から関心を惹かれなくなってしまった。かれらには、著者が上記した「日本人が有史以来はじめて食える社会をもった」ことのエポックメイキングともいうべき変化を認識できなかったのではないかと推測する)。

 作者の思惟、思考、思索、思いつき、発見などなど、多岐にわたり、それぞれ把握した事績から想像を逞しくして、こうあったら面白い、こうあったのではないか、こうあったであろうといった推測や飛躍まで書き進むため、虚実入れ乱れて混沌を誘い、頭を抱えざるを得ないところも多々あるけれども、そうしたテーマとおしゃべりが愉しいという、やや矛盾した感想をもったことも事実である。

 

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