司馬遼太郎と藤沢周平/佐高信著

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司馬遼太郎と藤沢周平

「司馬遼太郎と藤沢周平」
副題:「『歴史と人間』をどう読むか」
佐高信(さたか・まこと)著  光文社知恵の森文庫刊
1999年光文社刊  文庫化は2002年5月  ¥514+税

 

 帯広告に「天翔ける者」と「地を歩く者」とまず極端な区分けがあって、、両作家の作品をどう読むべきか、日本人の生き方に迫った意欲作との評があり、正直いって、私はこの種の本を心待ちにしていたので、即座に入手した。 帯広告自体が司馬遼太郎をこきおろす内容であることを暗示していたからだ。

 表題の二人の作家はすでに逝去しているが、逝去しているからこそ書けた本でもあるだろう。二人とも日本の文壇史から無視し得ない巨大な山ともいえ、いわば国民的作家で、フアンが多い。

 作者はこの二人の作品を、他のコメンテイターや、小説家の意見を参考にしつつ、思うところを存分に、遠慮なく披瀝するが、その勇気に拍手を送りたい。巨大というだけでなく、峻拒するニつの山を真正面から一刀両断にする心構えとしては、勇気というより、身の危険さえあっただろうと察するが、ありていにいって、作者の意見は一部は私の意見と合致、一部は若干の相違を浮き彫りにした。

 過去の個人的な読書歴を振り返ってみても、この二人の作品にはほとんど目を通しているが、両者の作品がともに日本が経済大国への道を営々と登りつめていく過程にあったころに発表されたものが多く、当時の時代背景からいうかぎり、司馬さんの本のほうが圧倒的に支持され、売れもしたであろう。が、時代が変貌するにつれ、両者の作品に対する受け容れ側の感じ方にも変化が起こりつつあるのではなかろうか。

 とにかく、両作家を好んで持ち上げる日本社会のただなかで、歯に衣を着せぬ批判の声をあげ、「蒙を啓け」といいきった姿勢には感嘆どころか仰天した。

 

 まずは、作者の言い分を以下に要約してみる。

 司馬遼太郎へのコメント:

1)上から下を見る作家。登場人物をいわゆる俯瞰し、観察しながらも、作者の眼はわずかなヒーローにしか向かわず、決して民、百姓などの大衆には向かわない。

2)内容は講談ではあっても、小説ではない。いわんや、「世界文学」というジャンルからは遠い。

3)人間に対する掘り下げが浅く、かつ甘い。

4)司馬の読者はインテリ層、ことに政治家や企業経営者に多い。そのうちの一人はカネボウの元社長だったし、一人はダイエーの創始者、中内功だった。バブル経済を招いた日本企業の経営者もその部下たちも、ほとんどが愛読者だった。

5)「弔辞小説」だから、登場人物の欠点を語らず、美点だけを採り上げて賛辞を贈る。そういう著作を書く作家。

6)歴史を人間的な要件から解説し、だれもが理解できることを可能にした。一方で、人間がときにもつ狂気、人間的なスケールを超えた言動への理解が欠けている。

7)「権力者を描くことで、歴史の動きが判る」という固定観念の持ち主。

8)「天皇を脳裏から抹消することで、この国の歴史がよりわかりやすくなる」としばしば口にしたが、それは大きなミスであり、癒しがたい誤謬。

9)人間が人間として持つふくらみを無視、ヒロイズムに徹しているから、作品は世界に通用しない。むしろ、大岡昇平の「レイテ海戦」のほうが世界文学として通用する。

10)歴史小説と歴史叙述に使い分けいていて、個人を肥大させて書いたため、読書側はそれを歴史書として勘違いし、結果、歴史上の人物への正しい認識を妨げた。

11)明治政府の中心人物だった山県有朋が死んだとき、当時の代議士の一人、石橋湛山は「死もまた社会奉仕」といったというが、司馬が死んだとき、大差のない気分におちいった。

12)「俗のダイナミズム」を知らずして、歴史を正しく書くことはできない。

 藤沢周平へのコメント:

1)山本周五郎の弟ではないかといわれるくらい、市井の無名者を中心に人情の機微を描く作家。人間が、身分階級とは関係なく、涙し、かばい、なだめ、励まし、そういう日本人特有の情というものを描いた。

2)「信長ぎらい」は有名。「多くの無辜の民を殺し、その行為はヒトラーやポルポトに匹敵する」と。(比叡山の焼き討ちを指しているとしたら、それはお門違いの見方)。

3)藤沢はみずからが吃音(どもり)で、それに悩んだ時期があり、中学の先生を2年間やったとき、同じ吃音に悩む生徒と何度も一対一で向きあい、矯正に力を貸した。子供の成績だけで、人間の評価はしなかった。また、「詩や音楽はメシの糧にはならないが、心の糧にはなる。逆境にあっても、心まで貧しくするな」と励ました。 たった2年の教師生活なのに、というより、短期間だったからこそかも知れないが、そのときの生徒らとの交際は長く続いた。(詩はメシの種にはならないが、音楽はジャンルにもよるがメシの種になる)。

4)「含羞の作家」であり、生涯「東北出身であることのコンプレックスから脱することができなかった」。(東北出身の文学者は多く、金田一、斉藤茂吉、石川啄木、宮沢賢治、高村光太郎、太宰治、丸谷才一など、いずれも人間の心情や機微に触れる作品が少なくない)。

5)根底に、農民の血が流れ、詩人の血が失われなかった。

6)吉村昭、城山三郎と同年で、とくに吉村とは同じ胸の病気で療養生活をしたという経緯がある。

7)「狼は好きだが、パンダは嫌い」(同感)

8)「日本文学を支えたのは藤沢であって、司馬ではない」

 本ブログにも書いたことがあるが、司馬遼太郎の作品は初版が出るたびに入手し、まるでコンベアーに載せられたように次から次へと作品を読み、魅せられながら、6,7冊読んだところで、「この人は作家というより商人だ」と思ったことを記憶している。

 つまり、作品を商品として、まるで果物を販売することを主たる目的として書いているという印象をもった。逆説的にいえば、それほど美味で、おもしろかった。

 司馬さんの作品に共通するのは、人物の、ときに極端な色分けである。一人一人を実態以上に、あるいは以下に、断定し、そうすることによって登場人物を(しばしば必要以上に)際立たせ、ために、どんな読者にも理解させることに成功している。だから、一般人にとって、内容が解りやすく、かつ頭のなかにインプットしやすい。

  「人間を深く掘り下げて書くということがない」との意見だが、その意味で当然といえば当然で、一個の人間には色々な側面があり、それらを多く書けば書くほど、印象は薄れる。とはいえ、司馬さんの作品は歴史書として読めば読むほど、史実から遠いところにもっていかれることも事実ではある。むしろ、この作家を小説家としてではなく歴史家だと勘違いさせた点に大きな問題がある。

 実態「以下」に書かれた例としては、「殉死」の乃木大将などがある。気の毒になるくらい、「無能」で「唖呆」というレッテルが押された。 こうした「色分け」や「独断」の姿勢が、人物を単純化し、読者を惹きつけ、結果としてそれまであまり歴史に興味を示さなかった女性にも歴史小説を読ませ、歴史への関心を国民的に拡大させたという功績、貢献は無視できない。

 旅順港の砲撃が可能になった経緯は児玉元帥が内地から太い大砲を持ち込んだことで解決するが、それならば、初めからそれを持っていかせればよいだけのことで、海軍から早く旅順を落とさないとバルチック艦隊に対応できないとせっつかれたことで、乃木が焦ったであろうことは容易に察することができるし、また、旅順陥落以降の乃木の活躍は同じくハルピンまで攻め入った黒木その他の大将との比較において決して劣ってはいない。

 尤も、だからこそ、司馬さんの本は印象的で、過去にどの本を読んだかはすぐ記憶の底から拾いあげることができるのだが、他方、藤沢作品は、「吃音」という悩みを持っていたとは到底思えないほど、文章が上手く、端正であり、流暢するぎるというのか、さらさらと読了してしまい、読み手の記憶に希薄だという欠点があると私は思っている。

 だから、「藤沢作品の名を挙げてみろ」といわれても、相当な数を読んでいるにも拘わらず、ほとんど出てこない。 文章づくりとは難しいもので、下手でも読者の脳裏に深々とインプットする文章もある一方で、、藤沢さんのように雪上を滑走するような文章は記憶に残りにくい。 もう一つ、藤沢作品のタイトルにはパンチが欠けていて、そのこともインパクトを弱める結果を導いたのではないか。「蝉」という字がつく本があった、「橋」という字がつく本もあった、程度の記憶である。

 司馬さんの、独特の文章や、語彙の使い分けに関しては、少なくとも、本書の執筆者よりはるかに上であり、ことに二文字漢字の配置は巧みで、内容よりも、言葉の並べ方、選び方に酔った人も多かった。

 私個人は本書の作者がいうように、「この国のかたち」「街道をゆく」「紀行もの」のほうに、ここ十年あまり心が動くようになっている。

 藤沢さんの「信長はポルポトやヒトラーと同じ」という説こそ、史実のうえで誤解があるのではないか。信長が焼き殺した比叡山の僧侶は僧侶ではなく、武装した僧兵であり、かつ、現代のわれわれが想像するような僧侶でもなかった。 旧弊に陥り、堕落の極にいた僧侶、人民を威嚇して食を得たり、ほとんど強盗といっていい手法で事物を我が物にしてきた事実を想定すれば、数千人の僧侶がいっぺんに焼き殺されたところで、日本の民のためにこそなれ、害はなかったと私は思っている。

 「日本文学を支えたのは藤沢であって、司馬ではない」というコメントは、後世の人に任せるべきで、作品というものは消えるべきものは消えていき、残るものは時代を超えて残っていくものだ。二人の長所も短所もわかるけれども、いずれが優れているか、いずれかが後世に残るかは、見当がつかない。

 作者も東北出身、本人も否定していないが、同郷である藤沢周平に有利なコメントがやや多いことから、丸谷才一がそうであるように、この作者も藤沢のもつ人情的なキャラクターが好きなんだなと思った。 日本人の系譜は、結局のところ、心情や人情から創造されてきた。なぜなら、それが日本人が生きてきた環境に合致しているからで、だからこそ「花鳥風月」の国であり続けるだろうし、今後も、そうしたものを愛する心は、外界から影響を受けつつ紆余曲折を経ながらも、連綿と継続するだろう。現代に入ってからも、俳句の句会があちこちで開かれている事実からも、そう言って間違ってはいないと思う。

 さいごに、「江戸城はだれがつくったか?」というのは愚問ではないか。 せめて「江戸城の設計者はだれか?」くらいの設問にすべきだ。「司馬なら太田道貫だというだろうし、藤沢なら大工、左官屋と答えるだろう」は、両者の相違を際立たせる目的での挿話だとは思うが、薄い文庫本一冊のなかに三度も書くほどの設問ではなく、愚弄されている感じが否めない。

 それは、かつて「鳴かずんば、殺してしまえ、ほととぎす」が織田信長で、「鳴かずんば、鳴くまで待とう、ほととぎす」が徳川家康で、「鳴かずんば、鳴かしてみしょう、ほととぎす」が秀吉だといったのに酷似するもので、比較が幼稚で、稚拙である。なぜなら、「鳴かずんば、鳴くほととぎす、もってこい」か、あるいは「鳴かずんば、放してしまえ、ホトトギス」が、権力者としてはあたりまえの指示だからであり、上記した三つしか回答がないという設定には無理がある。 それと同じことが、城の創造者がニ者拓一になっている点が、両者の違いを際立たせるための挿話であることは判るが、単純すぎ、無理もあり、面白みがないだけでなく、賢さを感じない。 


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