哀歌(上下巻)/曽野綾子著

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哀歌

哀歌」上下巻  曽野綾子著
2005年に毎日新聞社から単行本として上梓されたが、それ以前に紙上に掲載されたもの。2006年8月に新潮社より文庫化初版。

 本書はアフリカ、ルワンダで起こった内乱(100日間に100万人が殺害された)について、日本の修道会から送られた修道女を主人公に据え、見聞きした現地の様子、フツ族(9割)とツチ族(1割)間の殺戮、強奪、醜悪さなどに併せ、人間としての生活や有様、ニグロイドらの感性、アフリカらしい光景などを描いたもので、「哀歌」とのタイトルは旧約聖書の紀元前5887年にユダ王国の都、エルサレムの滅亡と捕囚という厳しい史実体験から生まれた五つの歌を示すものという。

 作者はローマ法王からヴァチカン有功十字勲章を受けているが、ヴァチカンの「天地創造」の絵を修復した費用は日本政府が国民の税金でまかなったことを本書を通して知り、政府は日本国民に対しては結構冷たい政策を押し付ける割に、外国に対しては甘いことにあらためて驚かされた。

 聖心女子大学を卒業した作者はクリスチャンとしても名のある人だが、アフリカには何度となく足を運び、この大陸のほぼ全域に及ぶ貧しさ、悲惨さなどについては作者にとって既知のものだが、ルワンダには内乱が終結した三年後に自ら現地に足を運び、たまたま宿泊したホテルの売店で内乱に関する「証言集」に出遭ったことがきっかけとなり、人々からも直接取材して、本書を著したという。

 作者が本書の展開にキリスト教的精神を貫いたのは不思議としないが、旧約聖書にある「人間の祖、アダムが神の意に叛いて追われて以来、人間は原罪を背負うことになった」という内容を本気で信じている単純な人間が存在することが私には不可解。

 だいたい、現地人の神父までが人を殺し、死体から衣服を剥ぎ取る行為は、人間以下であり、思わず「この土地のだれもかれも、みんな死んでしまえばいい」と呟いたほどだ。

 「孤児になって点々としていたから、自分が洗礼を受けたかどうか判らない」という少年がいたが、それは当たり前のことで、自身の判断で入信するか否かを決めさせず、ほんの赤子のときに洗礼させてしまう方式そのものが不当で、かつ人権をも侵しているからに過ぎない。信教の自由を完全に無視した手法を今に至るも採っている宗教的習慣は醜悪の一語というしかない。

 キリスト教徒であろうが、イスラム教徒であろうが、仏教徒であろうが、ユダヤ教徒であろうが、無神論者であろうが、だれもが人間として同じ煩悩と性悪から離脱できずに生き、そして死んでいく。「隣人を愛せ」との聖書の言葉は、フツ族でもツチ族でも、ほとんど全員がキリスト教徒で、宗主国であったフランス人宣教師に教育されたはずが、隣人どころか同胞を殺す神経はどう理解し、表現したらいいのか。

 「飢餓で栄養状態が悪化すると、人間の受胎率は上がる。種が存続の危機を察知すると、自然の仕組みがそれを促す」とは、必ずしも本書で確証されているわけではないが、強く関心を惹かれた。むろん、科学的な意味で。

 ルワンダには国連が入国して警戒に当たっていたが、危機的状況が発生するなり、ニューヨークの国連本部に連絡をとったところ、こともあろうに当時の国連事務総長のアナンはその文書を、殺害を行なう主体となっているフツ族出身の大統領に送った。テレビで見た顔を想起しながら、アナンがそれほど阿呆だとは知らなかった。

 主人公の若い日本人修道女がアフリカ行きを希望したのはアフリカ宣教師という仕事が日本にいて就職、結婚をするより意義があると思ったからで、結婚をして夫の出世や、人間関係に一喜一憂する同級生を見ていても一度も羨望を感じなかったとあるが、いざルワンダに到着し、生活をはじめるや、現地人の生活の様子や、同じ教会で働く人間たちとの関係、その土地に起こった殺戮の現場に遭遇、現状に一喜一憂するのは皮肉というしかない。

 修道院長の女性が日本人修道女に向かって口にした言葉がきつい。「自分の国が少し金持ちだからって、威張るんじゃないよ。教養とか文化だとかを鼻にかけて、この国を侮辱して見ていて、お高いところからものを言うのはやめてもらいたいね」との発言に、主人公は反発せず、沈黙を保ったが、私なら即座に「だったら、外国からの援助や支援を口を開けて待ってるような汚らしい姿勢をやめて、てめぇのことはてめぇたちだけで処理したらいいじゃねぇか。でかい口をきくんじゃねぇ」と言い返しただろう。尤も、「人間としての尊厳?そんなものでお腹はふくれないよ」という言葉に異論はないけども。

 現地の修道女で、学校を任されていた女性は無残にも殺されていたが、彼女が残した手帳には、「10歳で死のうが、15歳で死のうが、30歳で死のうが、90歳で死のうが、本人たちの生命としての充実度に差などはない」という言葉は重いというだけでなく、眞を衝いている。もし寿命差の相違に納得できないものを感ずるとしたら、それは現に生きている周囲の人間だけであって、人間は結局は本人の意思とは関係なく産み落とされ、死ぬまではとにかく生きるという点では、どの国の誰にも共通している。

 「人は生きている限り、人を強く求める」のも本当のことだし、「人は誰もが大きな矛盾のただなかで生きている」というのも本当のことだ。

 本書の起承転結の転から結に至る部分が最も読者の注目を浴びる部分であり、いわば盛り上がりの頂点に達する部分。

 暴徒による殺害、掠奪、放火が佳境に入ったとき、教会に逃げてきていた人々も現地の神父二人も焼け焦げになって死を迎えるが、ちょうどその時を狙っていたかのように、寡黙な使用人だった現地の男が主人公を捕まえて強姦におよぶ。そして、そのたった一度の、本人には不本意な性的関係から妊娠してしまう。ルワンダに修道女や修道士を送っていた各国はルワンダからの脱出を急ぎ、本国に帰国するよう通達するが、主人公は身重だっただけでなく、お金ももっていない。領事館に紹介された日本人男性(アフリカその他の国における民芸品を収拾し、販売するのを仕事としている)がはからずも支援を申し出、一緒に帰国する。

 主人公は男に次第に心を惹かれ、憧憬心から愛情に変容していくが、男には交通事故で盲目になってしまった妻があり、そういう妻だからこそ死ぬまで守り通す気持ちでいることが披瀝される。

 そして、男は主人公に向かい、「一般の人なら、レイプは事故と同じ、中絶するのがあたりまえで、だれもそのことを非難しないだろう。しかし、あなたはそういうことをせず、芽生えた命を大切にし、生み、そして育てるだろう」との言葉を耳にして、「自分が生んだ子が真っ黒の子であることを知ったときの母や姉の驚愕を思うと、不安でならないし、自分を襲った男への憎しみがその子に向かってしまう可能性だって否定できない」と発言すると、「あなたはそういうことをしない人だ。あなたなら、その子を立派に育てるだろう」と断言する。主人公は男のその言葉に縋(すが)って産む決意を固め、互いに二十年後に会う約束をする。

 私にとってこの場面が不可解なのは、子を産むか否か迷う女と、女を守護するように精神的にも経済的にも援けている男の二人が、子が生まれたあと、子が成長し、子が学校に行き、子が中学、高校へと進学していく過程について全く言及しないことだ。それでなくとも、この国は「いじめ」問題がくりかえしニュースになっている。肌の黒い子が学校に行くようになって、他の生徒から意地悪やいじめを受けないと思っているとしたら、これほど滑稽なことはない。

 男の「傷は一生、犬のように舐めながら治すべきだろう」という言葉も、「それこそが常識の世界の非凡」という言葉も、格好はいいものの、奇を衒(てら)い過ぎている。傷を舐めるより先に、傷をひろげられる方が早い時期に訪れるだろう。

 「解説」を担当した人は「読了後、しばらくは感動に包まれて・・・」と書いているが、解説を書く人間は元々その作者が好きなのであり、いわばフアンであって、著作内容を批判したり非難したりすることは決してない。正直いって、私にとっては学ぶ部分がなかった訳ではないが、感動はしなかった。ただ、飽きずに上下巻とも読みきることはできた。

 「墓を覆う土地は灰色の不機嫌な色をしていたが、それは貧困と荒廃を象徴していた。現世は救われようもないほど惨めなものであった。しかし、月光は溢れるばかりに、その上を覆っている。それは地上の悲惨とは別に、神の恩寵の豊潤が限りなく注がれていることの証拠だった」とは、内乱の3年後に作者自身が現地を訪れたときの印象を「あとがき」に綴った内容だが、これらの言葉に一面では感銘を受けながらも、また一面では、またも「神の恩寵か」と、うんざりする自分を認めざるを得なかった。


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