夏の闇/開高健著

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

夏の闇

「夏の闇」 開高健著  新潮文庫
1972年単行本として初版 文庫化は1983年

 

 著者は59歳の若さで、すでに逝去している。

 本書の舞台となっている土地が日本でないことは判るが、土地にせよ、家屋にせよ、道路にせよ、居酒屋にせよ、どの雰囲気も私の経験には全く無縁のように感じられながら、なぜか小説のなかに自身が沈潜していくような錯覚に捉えられ、知らぬまに著者の世界に座し、見惚れたり、聞き惚れれたり、舌なめずりしたりする自分に気づき、不可思議さに自失する。

 10年前に別れた女と再会するところから物語が紡がれ、情事をくりかえし、女の居所に移動する。その場面に至って、はじめて居所がドイツらしいことを察することができるが、著者は一貫して居所の細部には触れない。

 著者は豊富な語彙を駆使し、多くの比喩と抽象的な表現で読み手を翻弄する。まるで、読み手の想像力を試しているかのように。

 たとえば、「豊満が仮死ならば、美食は好色」とか、「わたしは女の絶望や不幸が情事と悦楽にひりひりした辛味をそえてくれる気配だけをむさぼった。女もまた壮麗な白哲の下腹で私をむさぼることに忘我で呼応した」などと語り、料理についても「栄養と淫猥が手をとりあって踊っている」など、こうした文章が入試問題に出て、意味を問われたら、受験生は困惑するだろう。 読み手にしたところで、なにがどうなっているのか、瞬時には理解できず逡巡する。

 一方、「愛という言葉を聞くたびにおぼえる、とらえようのない当惑と居心地の悪さ」や「女は思いがけないときに峻烈さを口にする。その瞬間に、それ自体の質量を帯びて肉薄してくる」などは、気取りすぎた文章だとは思いつつも、よく解るし、「その通りだな」と納得させられる。

 本書には「分泌する」「ひりひりする」「発光する」などの言葉が頻発し、作者がよほどこうした言葉が好きなのかと推量した。

 本書が書かれたのは、たぶん1950年代後半ではないかと思われ、著者が執心したヴェトナム戦争のことが繰り返し登場するが、この人がこの戦争のルポを書いて雑誌、新聞などに投稿していたことは知っていたし、読みもした。

 ただ、料理の話、釣りの話を二割削って、その分を男と女のことに費やしたていたら、本書はさらなる光輝を放っていたではないか。 むろん、この著者がTVの釣り番組にしばしば登場していたことは知っている。

 解説者はC.W.ニコル氏だが、日本の小説のなかで最高の二冊を挙げれば、二冊ともにこの著者の作品だといいながら、読んだのは翻訳物(英語)だという。できることなら、日本語の本書を読んで、解説して欲しかった。なぜなら、この作者の著作の特徴は推敲に推敲を重ねたうえで絞り出した日本語の漢字と漢字の組み合わせにあるのだから。いうまでもないが、日本人の心情を書いたものは、翻訳者の優劣にかかわらず、むずかしいし、白人には理解がおよばないと、私は思っているし、それでいいのだとも思っている。

 ただ、もしニコル氏がこの作者の日本語による著書をそのまま読解する力があったら、気が狂うほど、開高健の著作にのめりこむだろうと思う。そして、なぜ、この作者の作品がコーカソイドの西欧的な人間に受けるかについても、大体の予測はできる。

 ことに、川端康成や開高健の作品の翻訳は、それぞれの本質には相当の相違がありはするが、なまじの腕には余るほど、日本人的な心情の世界が、選び抜かれた言葉を集積してつむがれるからだ。とはいえ、川端文学と開高文学とを単純比較することは控えたい。

 比喩や語彙の豊富さや例えや表現の闊達さと独自性が優れているというのなら、それは「言葉を弄んでいる」ことと隣り合わせではないかという気もしないではないが、それこそが他者の追随を拒絶、峻拒する著者の特質、特徴だといわれれば、納得のほかはない。

 なんだか、この作家の作品にはまりそうな気がしている。


前後の記事

現在はコメントを受け付けておりません。

サブコンテンツ