夢か現か/高井有一著

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夢か現か

  「夢か現(うつつ)か」 高井有一著(1932年生)

   2004年から2006年まで「ちくま」に連載

   筑摩書房  2006年12月初版  単行本

 この作家の著作に接するのは初経験。内容はエッセイだが、ほとんどは昔々の交友関係、知己との交流に占められ、内容的に面白いと思わせるものはあまりない。とはいえ、73歳になってなお、しっかりした文体、正確な言葉の選択、記憶の確かさには唸らされる。

 帯び広告に「世界の現状をどう見ているか、研ぎ澄まされた文章で綴られた一章、一章があるときはしみじみと、あるときは粛然と読者の胸に迫ってくる」と書かれているが、それは読み手次第。

 「イラク占領は日本占領をモデルとして行なう」とはアメリカの一政治家の発言だが、それに対し、作者は「その無知と傲慢がいま復讐されている」と批判をこめた言葉で揶揄するが、同感。

 本書に際限なく登場する作家たちのほとんどは私の知らない作家で、特別に新たに章を設けて書いたという吉村昭以外で名を知っているのは立原正秋、久坂葉子、水上勉、永井龍男くらいで、語られる作家を知らない以上、ほとんどのエッセイに関心も興味ももてないのは仕方がなかった。

 知己で戦争で亡くなっていった人を想起しては、アフガニスタン、イラクへのアメリカの一方的な攻撃、殺害に関して、エッセイを書いている最中に9.11が起こったため、折りに触れてはイラク戦争などについて書いているが、触れ方が不十分で、納得できない部分もある。

 たとえば、「自衛隊員、延べ、5、000人が現地に赴き、一人でも死人が出たら」と言っているが、自衛隊員はイギリスやオランダの軍隊に守られつつ水道や生活に必要なものを作るという、軍隊としては屈辱的な業務だけに従事したのであって、当時の日本政府はそのことを予めアメリカに依頼している。「聞けわだつみの声」などという大仰な話ではない。

 自衛隊はイラクの復興に貢献するために派遣されたのではなく、アメリカの高官が「Boots on the Ground」との要求に応えただけだと作者は仰るが、あたりまえだ。日本と日本国民を軍事的に守っているのはアメリカなのだから。

 73歳の永井龍男が芥川賞の選考委員を務めていたとき、池田満寿夫の「エーゲ海に捧ぐ」という作品を、「これは文学ではない」と言い、票を投ずることを拒否、同時に選考委員の座を辞したとある。私は70歳を過ぎた選考委員が存在したことに驚いたし、もっと早く辞すべきだったと思っている。

 時代はスピードを速めて動いている。社会が変貌をきたしている以上、文学の内容にも変化が起こることは必然。老齢作家がこうした変容についていけないのは当たり前で、近頃の受賞作品などは上記した作品などのレベルをはるかに下回り、「これが文学か」と言いたくなるような作品が多い。文学作品というものは所詮、時間の経過が評価するものであって、選考委員ではない。

 高遠菜穂子ら数人がイラクから解放され帰国したとき、「自己責任」の大合唱が起こったことに驚愕したそうだが、目的が何であれ、はじめから危険が予測されている地域に侵入する以上、それが「自己責任」でなくてなんというべきなのか。もし、彼女らに続いて、何人もの日本人が出国し、イラクに入国して善意の訪問をしたところで、拘束され、生死の問題となるのは判りきったこと、「その都度、救出に国民の血税を使うのか」と、国民が騒ぐのは当然至極。そこに人間的な情緒を介入させる余地はない。

 イラクで人間の死体から衣服を剥ぎとり、ピラミッド型に積み上げた写真に、戦争とは人間をここまで残酷、腐敗させることができるのかと嘆声を発しているが、日本兵だって、かつて、予め捕虜に穴を掘らせ、刀の切れ味を試し斬りに使い、死体を穴に蹴落として埋めた史実があるし、フィリピンでは現地人を殺して食ってしまった史実もある。戦争に人権を持ち出しても始まらないし、哀切な感じを持ちこんでいたら、自分が生きていけないだろう。戦争とは所詮そういうものではないか。

 それよりも、結核の妻を寒い冬に軽井沢から暖地に移そうとしなかった田辺元という博士のほうが頭がおかしいのではないか。これは明らかに田辺のエゴであり、バカというしかない。

 むかしの作家には芸術至上主義のような感覚があり、島崎藤村にしたって、破壊を書き終えるまで家庭を顧みず、その間に三人の子供が死に、妻は夜盲症になったというし、「家」だか「夜明け前」を書くに当たっては故意に女中(姪だったかも知れない)と性的関係を迫ったとも聞く。

 男でなく男性、女でなく女性、男といい、女というのは蔑称だからというのは、一体いつ誰が決めたのであろうか。作者が言うように、杉村春子は「女の一生」を長らく舞台でやっている。床屋でなく理髪店、八百屋でなく青果店、すべてがきれいごとに終始しているが、これはすべてメディアの意図的な誘導ではないか。

 仰るように、「身果つるほどの祖国はあるや」という歌は、現今の政治家、官僚、公務員、企業家の数々の不祥事報道に接すれば、同感というほかはない。

 確かに、むかしは寒かった。しかし、寒かったおかげで、火鉢をみなで囲みつつ食べた湯豆腐の味は格別だったし、冷蔵庫、冷凍庫のなかった時代には、捕獲する量にも限度があり、鮮度の落ちた生ものは絶対に食卓には出なかったし、乱獲もなかった。

 イラク戦争にせよ、アフガニスタンにせよ、ブッシュが戦争に踏み切った裏には、票田であるテキサス(石油資源地)からの政治資金、軍需産業からの政治資金が動いているからではないか。票田である土地のために労を惜しまない政治家は日本だって大半がそうだろう。国のためにではなく、票田のために働いているのだと思えば、腹も立たない。田中角栄だって新潟に公共投資をふんだんに行なった。

 作者に同感なのは「霊魂を信じない」と、「現在の長寿社会は異常な気がしてならない」という部分である。

 総評として、帯広告でいうような、「研ぎ澄ますまされた、透徹した文章」という感じはなかった。


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