大黒屋光太夫/吉村昭著

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大黒屋

  「大黒屋光太夫」上下巻 吉村昭著(1927年ー2007年)

  2005年6月 新潮文庫 初版

 本書はむかし読んだことがあり、歳月を経て、あらためて触れることで、気づかなかったことに多く接することができた。

 本書の主人公、光太夫は1752年生まれ、長じて船頭として伊勢の白子浦から米や綿などを積んで江戸に運ぶ仕事していたが、1782年、江戸に向かう途中で暴風雨に遭遇、舵を壊され、海水をかぶって漂流、アリューシャン列島の一島、アミシャッカ島に漂着、総勢17人でいた船乗りのうち、船中で1人死亡、アミシャッカ島では7人が死亡し、残るは9人になっていた。(当時は鎖国令のために、有視界航行しか許されず、造船所も小さな船を造ることに徹していたため、出港した後に暴風雨に遭遇すると、ほとんどは漂流状態を余儀なくさ、そのまま音信不通となったケースは数知れずだった)。

 光太夫らは一年後に、カムチャッカに連れて行かれたが、そこで3人が死亡、残ったのは6人になり、土地の代官にオホーツクに向かうよう促される。そこで男女ばかりではなく、男同士が唇を吸い合って喜ぶ現地人の姿に唖然としたと書いてあるが、男女ならいざ知らず、ロシアで「ハグする」なら解るが、「男同士が唇を吸いあう」という表現にはその真実性に疑問を感じた。女が男に見えたのかも知れない。

 オホーツクからさらにイルクーツク(バイカル湖が近い)に土地の代官に行くように指示されたが、大陸の中ほどに進めば進むほど寒気が強く、呼気が氷化するという、未経験の寒冷地帯で、一人は凍傷にかかり、片脚切断の憂き目に遭う。凍傷にかかると、はじめは足の先が青黒くなり、血液の循環が阻害され、血や膿が出、腐敗がはじまり、溶けていくような印象がある。同じ作者の違う著作だったと思うが、温かい土地で育った者ほど凍傷にかかりやすいという説明があった。脚を切断した男はロシア正教の洗礼を受けキリシタンとなった。ということは、その男は帰国を諦めたということを意味する。

 イルクーツクでは、過去に難破してイルクーツクに運ばれ、そこで洗礼を受け、土地の女性と結婚した日本人がいたが、本人はすでに亡くなっており、混血児であるその息子(日本語を父から学んでいた)との出遭いを通じて知った。ロシアには光太夫やその男の父親のみならず、多くの漂着船があったが、生き残った日本人のほとんどが日本語の教師にされ、将来の日本との外交交渉に備える手法が採られていたらしく、だれにも帰国への道が開かれることはなかった。

 イルクーツクでは親しくなった土地のキリロという男(鉄鉱石、薬用植物の専門家)の親切と助言を受け、彼が当時の首都、ペテルブルグ(現サンクトペテルブルグ)に行くときに、光太夫を同行し、政府筋に帰国嘆願をしてみることを奨められ、男の助言に従うことを決意する。

 当時のロシアはすでに蝦夷(えぞ)と呼ばれていた頃に二度ほど日本の北海道を訪れていて、幕府はロシアが大国であり、強国であることも知っており、外交交渉を諦めずにまたやって来ることを察知していたが、ベテルブルグではときの女帝、エカテリーナに謁見でき、帰国したい旨を申請し、受理されるという幸運を得た。

 女帝らの思惑は南下政策にあり、冬に凍結するカムチャッカ、アリューシャンから南下し、日本から燃料となる薪、飲料水、食料を得ることができると期待、光太夫らの帰国に寄与することで、そうした道が開かれることを望んだ。また、ロシアではオランダから日本についての概略は聞いており、かなり詳しい知識をすでに持っていたという。

 カムチャッカからベテルブルグといえば、ユーラシア大陸の端から端というイメージであり、現在なら鉄道が走っているが、当時は馬車での、場所によっては道なき道を走ることも多く、難儀することも避けられず、途中でまた一人が死亡、氷が硬く、土を掘って、遺体を埋めることもできず、氷の上に野ざらしにせざるを得ない状況にいたたまれなくなった一人の同行者は帰国することは不可能と諦め、ロシア正教の洗礼を受け、切支丹になった。キリシタンになることはキリシタン禁制を決めていた母国への帰国をギヴアップすることを意味した。

 光太夫は長い歳月をロシアで送る間、ロシア語の習得に力を入れ、文字を覚えることにも努力した。

 1792年(漂流して10年後)、光太夫、磯吉、小市らさ3人だけが生き残り、(といってもキリシタンになった二人が泣き叫んで帰国を願ったが、みずから望んでキリシタンになった二人を連れ帰ることには無理があったため、置き去りにするしかなかった)。

 ロシア船で蝦夷に送られ、松前藩との外交交渉が始まったが、ロシア船船長は政権に就く人間との話し合いを求め、相当期間、蝦夷に足止めを食ったが、幕府はロシア側に「外国との交渉はすべて長崎で行なうことになっていること、ロシアにも長崎に入港できる鑑札を差し上げるので、正式な交渉はそのときにして欲しい」旨を披瀝しただけで、ロシア船を追い払い、3人を引き取った。もっとも、一、二年後に、再び日本人漂流者を同行して長崎に訪れたロシア船に対し、幕府は漂流者の受け取りには逡巡しなかったが、外交交渉には積極的な姿勢は示さず、船を追い払ったのが史的事実。

 蝦夷ではビタミン不足のため、小市が壊血病にかかり、せっかく故国を踏んでいながら間もなく死亡したが、光太夫も磯吉も食糧事情は同じであったのに壊血病にかからなかったのはなぜか、説明はなかった。

 (また、蝦夷や樺太には多くのアイヌが住んでいたが、彼らは昆布を食べることによってビタミン不足を補っていたこと、江戸時代から沖縄では蝦夷から干した昆布を送ってもらい、ビタミンを摂取したことが史実として書かれている。そういう事実を蝦夷を管轄する松前藩の武家が知らぬはずはないと思われるが、それについての記述はなく、「間宮林蔵」という吉村昭自身の作品で昆布の効用について書かれていたことを思い出し、不可解な気分になった。沖縄は現在でも昆布の使用量は全国一である)。

 磯吉よりも、光太夫が幕府に招かれ、当時としては異例ともいえる、将軍(当時は家斎)にも引見されたのは対ロシア政策を今後どう採るべきかに苦慮していた為政者側の思惑が想像され、ために光太夫らを大切に扱ったことが知れる。ロシアの現実を話し、話した内容はオランダ学者の桂川甫周が「北さ文略」(ほくさぶんりゃくと読むが、「さ」という字は木偏に差という字を書く)にまとめたが、後に井上靖がこの文献を利用して「国酔夢譚」という本を書いたものの、極めて簡略であるのに対し、吉村昭の本著作はその文献はもとより、伊勢の白子浦にも足を運び、現地の地方史を探索する人と何度も面談し、協力を得て、磯吉が語った内容が「ロシア国漂舶聞書」「極珍書」に収められていることを知り、これらの二冊を文献に加えることで、より血の通った人間としての温もりを感じることができ、本書を書くうえでの礎になったという。

 吉村昭氏の著作にはできるだけ真実味のある、人間らしい反応や喜怒哀楽のある文献、資料を探り、探索に時間をかけて書くという姿勢が常に貫かれていて、小説でありながら、可能な限り事実を追求したため、ノンフィクションを読んでいる気持ちにさせてくれる。

 光太夫は70歳、当時としては長寿を全うしてで死亡しているが、その間、故郷にも帰って姉や親戚とも再会しつつ、ほとんど江戸に住まい、若い妻を得て二人の子をもうけ、幕府からのまかないも受け、安穏な生活をしながらも、歳月の経過とともに虚しさが心を占め、老齢にいたってからはぼっとしていることが多かったという。

 解説者の、「10年という歳月にわたったというだけでなく、ロシアの広大な土地を歩き、見聞きし、皇帝にまで面談しながら、それを役立てたり学んだりする場面がまったくなかったことは、日本にとって損失以外の何ものでなく、夜明け前の近代日本が味わなければならなかった悲劇を象徴している」との批評には頷けるものがある。

 以前に読んだときには気づかかなかったが、本書の文の流れには、ややたどたどしさが感じられた。


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One Response to “大黒屋光太夫/吉村昭著”

  1. withyuko より:

     漂流して数奇な運命をたどっていく人、昔は多かったんですね。ジョン万次郎しか知らなかったけど。余談ですが、足摺岬にあるホテルの従業員さんにジョン万次郎の子孫の方がいらっしゃいました。

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