婚姻覚書/瀬川清子著

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「婚姻覚書」  瀬川清子(1895-1984)著
副題:「日本人の婚姻をめぐる習俗」
講談社 1957年単行本初版
2006年1月 同社より文庫化初版

 
 著者は東北出身の民俗学者、本書では1800年代の終わりから1900年代前半にかけての、日本人の大半が全国的に未だ農業生産にたずさわっていた時代に焦点を絞って、各地の婚姻の形態、あり方、主婦権などをまとめたものだが、それらの実態調査はそれ以前の時代の婚姻の様相や様式をも想像させ、明治期の第一次大戦以降の変化をも視野にとどめている。

 年次と地域と風習とがそれぞれ唐突に語られることが難点といえば難点、ためにダブった話があり、偏りもあり、読み手に混乱を与えてしまう部分もないとはいえないが、労作であることは否定できない。

 以下は、学んだこと、面白いと思ったこと、気になったことなどを列記した。 (   )内は私個人の意見。

1.日本古来の婦人問題は、清少納言や紫式部のような貴族階級とはなんの関係もなく、社会の根っこをなしていたのは生産階級であり、みずから経済力を有する日本の女を調べることで、日本女性と婚姻の関係が把握できる。

2.調査の結果、最も奇形的な婚姻は富山県の白川郷。この里はむかしから養蚕が主な生活手段で、女による手先仕事が必要となる産業だったため、長男に嫁いだ女のほかは、すべて男の側が「通い婚」(妻問い婚ともいわれる)を行い、子供ができても、女が男性の家庭に入ることはまったくなかった。ために、それぞれの家は大家族で、平均して30人から40人もが同じ家に暮らしていた。1年に120-150貫の繭(まゆ)の生産高で、山桑摘みが20人もいたという。この収穫量は一家で田地を6町歩耕して得られる農家の収入と同等だった。

 また、能登半島の輪島の海士町では女が海女として家計の担い手だったから、結婚しても、やはり女は実家から動くことをせず、里方で産まれる子、あるいは息子の子(孫)の里方での出産に婿の親は口頭による挨拶だけで、干渉せず、援助せず、義務感、権利感を示す特別な行為もしない。明治年間、子は母親の庶子として登録させられた。尤も、出産は里方でという風習は全国至るところにあったし、本書が書かれた時代にもあった。

3.五島列島をはじめ各地に、「娘宿」や「若者宿」というものが両親の家とは別にあり、若い男女を複数でそこに入れて教育するという形式があった。心おきなく話のできる寡婦の家や老人の家などに若者が集まり、相談に乗ってもらうケースもあり、グループで観察しあい、会話を交わすことで相手との相性を配慮しつつ婚姻相手を選択することができた。

(また、性について、本書はほとんど触れていないが、こうした場所では寡婦や老人を交え、介入者が性的な相談にものれるほどの知識を持っていた限り、性教育も可能だったのではなかろうか)。

 また、こうした若者主導による交歓会のような場は全国的にあり得たであったろうから、現実に、カップルが生まれれば、若者の代表者もこのカップルが婚姻に至るまでサポートするのが決まりだったという。

4.関東の9つの村の幕末50年間の婚姻1060件の調査によれば、自村および3里圏内の婚姻は89.8%、3里以遠15里圏内の婚姻が8.5%、15里以遠のケース1.7%で、この事実は日本村落の婚姻圏がいかに狭かったかを示しており、この状態が19世紀末まで続く。大正13年から昭和初期になると、3里圏内が70%と減り、3里以遠15里圏内が15%と増え、15里以遠も同様に15%と上昇。

(第一次大戦による好況が新しい仕事を生み、都会に人々を呼び寄せる効果をもち、婚姻にも結果したと見るのが妥当であろう。と同時に、交通手段の発達、新しい道路の開発なども生活圏の拡大、拡張に繋がったものと考えられる)。

5.九州の五島列島の主島、福江島における婚姻を見ると、明治初年には隣島との婚姻はあったが、五島列島以外との婚姻は全くなかった。これが、昭和4-8年の5年間の婚姻66件のうち38%が福江島内、39%が福江島および隣島、23%が海を越えた本土に籍をもつ人との婚姻となり、うちわけは長崎4、広島3、福岡2、佐賀2、徳島、香川、大阪、愛知各1と、遠隔地同士の婚姻が急激に拡大している。

6.女子が初潮を迎えると、地方により鉄漿(おはぐろ/かね)をつけたり、あるいは若者を呼び、振る舞い酒を出したりして、娘が婚姻可能になったことを公表することが多かった。

(初潮を迎えたばかりの娘との婚姻、そして出産というケースが多かった時代、死産、流産、奇形児など多発する原因となったことも否めない)。

7・対馬では「嫁入りさせる」ことを「稽古にやる」といい、嫁の方が男の家を気に入らなければ、いつでも実家に帰ることができ、別の男の家に再び「稽古に入る」ことができ、男の方も女が里に帰れば、別の女を家に入れた。そうすることで、互いの相性、家族関係、嗜好、癖、特殊な習慣などを知り、それが結婚生活を継続するうえで支障をきたすか否かを事前に吟味できるという、相互に納得づくで問題を残すこともなく、きわめて現実的な手法だった。

(ただ、全国的に婚期は16、7歳で、現在から考えれば、早婚であるが、平均寿命が55、6歳と想定するれば、これもやむを得ない習慣だったのかも知れない)。

8.土佐、高岡郡津野山の村民は江戸末期まで世間でいうところの結婚という制度を知らず、ただ少壮の男子が夜間、婦女のいる家に泊まりにいくだけで、夫婦というものが存在しなかったから、今夜と明夜の相手は異なり、こういう社会機構が世代を重ねてあり得たことは珍しいケースといっていい。

(この村の女性にも男性にも貞操観念は育たなかったろうが、「妻問い婚」「通い婚」の多かった時代、男女関係は一般に放縦で、おおらかだったから、できた子の父親が誰なのかについても正確には判っていなかったケースが少なくはなかったであろう)。

(嫁入りして、しばらくは準家族扱いされ、頻繁に里帰りができたことは、むしろ気楽であり、婚家における嫁としての地位に安定感は欠けるものの、嫁と姑との主導権争いや確執は起こらず、そのあたりに嫁姑間への配慮があったのではないか)。

9.主婦という存在の重さという点で、現代とはおよそ異なるものがあったことを理解しないと、当時の主婦のありようはわからない。第一に、どんなに貧しくても、国家が個人の家を援助することはなかった。第二に主婦は家族を飢えさせないようにやりくりする義務を担い、食事はおろか栄養面への配慮、発火法の不自由な時代、火を保ち続け、管理すること、食物を腐敗から守るための工夫、知恵、さらには病気から家族を守る責任、農家であれば、家と職場とは同じことになり、生産に要する労働力の按配、物質の自給自足態勢の維持、収穫と消費の循環がスムーズに動くように生活様式を考えなければならないし、また、農家である限り、村落は全体が共同体であり、共同体の一員としての自覚、協力、配慮を忘れてはならなかった。「家政」という言葉はこの時代にこそふさわしい言葉であり、主婦がそれを担う立場にあった。

10.明治の文明開化以降、新政府がことさら一等国を意識、風紀紊乱を取り締まり、風俗に関する法的処分まで立案され、長い歴史のなかでおおらかであった男女関係にせよ、婚姻にせよ、色々な面で制限されるようになり、ために、親が相手を決める、たった一度の見合いで否応を決める、性に関しての相談相手を失うなど、ことに第一次大戦後の若者たちは全国的に窮屈な社会体制を甘受せざるを得なくなる。

11.作者は初版時の「あとがき」で、「婚姻のことは時代が変わり、核家族的な社会に変貌しつつある現代でも、人生の謎である」と明言しているが、同感というほかはない。例外的な土地の風習はあるけれども、地球上のほとんどの土地、国で、「せいのー」と声をかけあって一斉にスタートしたような印象のある「一夫一婦制度」「結婚制度」というものの成立過程、生い立ちというものが私にはかねてから不思議で、納得がいかない。


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