嫉妬の世界史/山内昌之著

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書評:ためいき色のブックレビュー-嫉妬

 

  「嫉妬の世界史」 山内昌之著

   新潮新書  2004年11月初版

 「嫉妬」という視点から世界史を俯瞰しようという内容。

 登場する人物は、アレキサンダー大王、徳川慶喜と勝海舟、ナースィルとサラディン、孫権、島津久光と西郷隆盛、呂后、森鴎外、近藤勇、ヒトラーとロンメル、中谷宇吉郎、牧野富太郎、石原莞爾と東条英機、、スターリン、トハチェフスキー、トロツキー、島津義久と義弘、ゴードンとベアリングなどなど。

 記憶に強く残ったのは、吉良上野介に対する大方の大名の嫉妬。赤穂藩主、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)もそのうちの一人だったのだろうが、あらためて思ったのは、武士(もののふ)がいったん刃を抜いた以上、必ずその場で相手を仕留めるべきだったということだ。もし殺害に成功していれば、あたら47人もの志士を後々切腹などさせずにすんだものをと同情に堪えないし、浅野という大名の迂闊ぶり、阿呆ぶりに腹の立つ思いが消しがたい。

 さらに、森鴎外が人一倍嫉妬深い男だったことに驚いた。しかも、文筆の力を借りて、それと判るような書き方をしたという。この男を陸軍が軍医に置いたことの不幸は脚気の原因を誤判断して数万人の兵士を死に追いやっただけではなかったということだ。もともと嫌いだった鴎外がますます嫌いになった。

 東条英機に特有の「優越欲求」と「スター性のある人物への怯(おび)え」が、シンガポールをあっという間に落とした「マレーの虎」こと山下奉文中将を東京に戻さず満州へ転任させ、首相候補として名の挙がっている寺内寿一元帥をサイゴンの南方総軍に置き放しにし、軍事の天才といわれた石原莞爾を潰しにかかった。この実話は、もし東条英機が不在で、永田鉄山少将のような度量と才気のある人間が首相をやり、石原莞爾を使わせていたら、昭和日本の進路は違ったものになっていただろうという作者の見方に納得させられる。東条英機は優秀な男だったが、妬心の強い典型的な官僚タイプ、ものが小さすぎた。

 もう一つ、記憶に強く残ったのは、島津義弘(義久の弟)、秀吉の指示で朝鮮出兵時、彼はわずか6,7千の兵力で、明と朝鮮の合同軍20万を打ち破り、敵側の死者は10万人におよんだという話。この快挙があって、朝鮮からの撤退が可能だったこと、しかも、義弘は殿(しんがり)を受け持ち、引き上げを無事に完了させた。以後、朝鮮では、「シマーズ」は泣く子も黙る鬼神のごとく恐れられたという。関が原でも、兄の義久は優柔不断だったが、弟の義弘は西方についたものの勝機が見出せぬことを看破するや、敵中突破を敢行、生きて帰国できたのは、国から出た1千の兵士のうちたったの80人だった。西方についたにも拘わらず、この男の勇気と武力が絶賛の的となり、結果的に所領を安堵できたが、以後、徳川政権からは危険視され続けた。

 さいごに、嫉妬や憎悪などとは一切無縁に大きな仕事をした保科正之(1611-1672)。徳川三代将軍、家光の異母弟にあたるが、そのような風情をまったく外に出さず、兄事に専念。殉死を禁止し、玉川上水開削の建議、明暦の大火直後に江戸復興計画を立案、江戸城天守閣を無用の長物といって再建させなかった。また、会津藩主としては年貢米を4割3分に引き下げ、社倉制度(飢饉に備えた穀物倉庫)の確立、90歳以上の者には終生一日につき玄米5合を支給、間引きの禁止、救急医療制度の創設、刑罰の簡素化(残忍な刑の廃止)などを行なった。17世紀にこれだけの社会制度をつくった領主は西欧にもいなかったと、著者はいう。

 新撰組の話はわずかな投機の成功機会を狙った、江戸期の仇花という印象が以前からあり、伊東甲子太郎の能力に嫉妬して殺してしまう下りは、ヤーさんの主導権争いを感じさせるだけで、なにをいまさらという感が拭えない。新撰組は所詮、政治的にも知能的にもレベルが低い。


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