山の音/川端康成著

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山の音

「山の音」 川端康成(1899-1972)著
1954年、筑摩書房より単行本として発刊
1957年、新潮社より文庫化初版、2003年までに88回の重刷

 

 川端文学は「踊り子」をはじめ、「雪国」「山の音」など、学生時代に接し、悉(ことごと)く感動した記憶がある。ことに、「十六歳の日記」には「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」という言葉を想起させるほど、繊細で、華麗な文才に圧倒され、痺れもした。

 久しぶりに「山の音」を手にして、ようやく理解に至ったことは、一人の美しく、可憐で、清らかで、ナイーブな女性を描くうえで、周囲に登場する人物を可愛げのない、根性の悪い俗物を配することにより、ことさら、一人の女性を際立たせ、引き立たせ、浮き立たせるという手法を採っていることで、この手法は「雪国」の主人公(作者自身)が妻も子もある身ながら金銭的な苦労なしの男で、山国の温泉場を訪れ、そこに清楚で、艶(なまめ)かしい芸者を映し出す手法に酷似している。また、「踊り子」にも、そうした創作上の傾向は否定できない。

 川端文学では、男を際立たせることはあまりなく、現今では失われてしまった楚々とした日本女性を描くことに専心、没頭したように思われる。彼が現今の日本女性を見たら、卒倒してしまうだろう。

 そうして、もう一つ、川端文学の背景には、日本古来の花鳥風月があって、自然の美を舞台に、それとなく強調し、底辺にエロチシズムを流すという、むしろ時代を先駆ける斬新な手法とは縁がなく、そのことがかえって多くの日本人ばかりでなく、外国人にも読者を得た最大の理由だったと憶測した。

 むろん、川端が生きた時代というより、本書が著された時代は核家族化も進んでいず、結婚も見合いか親が決めた時代が続いていた頃、家というものの内実は、それに伴う苦痛や喜悦を含め、現代とは大きく異なるもののあることは理解の範疇。

 川端はかつて「三島由紀夫」が文壇デビューを飾ったとき、「この作家には到底およばない」と嘆いたといった意味の言句を吐いたこがあるとかねて聞いているが、その意味も解かった気がした。むろん、いずれを好んで読むかは、批評家の評は別にして、読み手の勝手というものだろうが。また、当時の新聞や雑誌によれば、川端より三島文学がノーベル賞にふさわしいという日本文壇の意見も強く、川端は賞を遠慮したという話もある。しかし、私は三島文学は日本文学を世界に紹介する上で、川端文学を上回っていたとは思っていない。

 日本人の古来からの美意識や心情を描くという点で、川端を凌ぐ作家は存在しなかったと言ったら過言だろうか。

 ただ、再読してみて、本書のストーリーをほとんど記憶していなかったことを確認する機会になった。


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