山下奉文/福田和也著

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山下奉文(やましたともゆき)

「山下奉文」 
 福田和也(1960年生/慶應義塾大学教授)著
 2004年に月刊誌「諸君」、同年に単行本
 2008年4月10日 文春文庫により文庫化初版
 副題:昭和の悲劇

 

 帯広告に「山下のために流す一掬の涙を日本人はもつべきだ」とあり、裏表紙には「シンガポール陥落の英雄にして、絞首刑に処された山下奉文(やましたともゆき)こそが、時代精神を余すことなく象徴している」とある。

 私は寡聞にして、山下に関しては、イギリス軍のアジアの拠点だったシンガポールを兵士らに自転車を使わせてマレー半島を南下、あっという間に陥落させ、『マレーの虎』と恐れられた司令官といった程度の知識しかなく、かねてこの人物をもっと知りたいという希みがあった。

 日露戦争時の旅順よりもはるかに規模の大きなイギリス軍が守備するシンガポールの要塞をたった一個師団で攻撃、あっという間に陥落させた裏には、山下の合理的で緻密な戦略構想があった。上陸用舟艇を海上から要塞の全面に突出させ、同時に、戦車数台に自転車に乗った兵士らを同行させ要塞の背後を電撃的に襲うという戦術で、これは欧州に滞在中にドイツから学んだ手法だったという。

 要するに、アジア人がコーカソイドの造り上げた牙城を攻め落とし、大航海時代以来の欧州のアジア支配に終止符を打った世界史的な偉業といっていい。この史的事実は、白人全体の名誉を大きく汚す結果をもたらし、マレー中の人々の心に非常に深刻な印象を与えたのみならず、それまでイギリスの支配下にあったインド人には独立への自信をもたせる結果をも与えた。

 「マレーの虎」という表現を私は「虎のように恐ろしく強い」という意味と理解していたのだが、そうではなく、「獲物の不意をつく卑怯で残忍な獣」との意味であるとの説明には驚きもしたが、イギリス側からの悔し紛れの悪口に過ぎない。

 1960年生まれの人が本書のように清潔で、フェアーな作品を上梓したことには感動を禁じえなかったことを、あえてここに記しておく。以下は学んだことのエキス:

1.第一次大戦後、東条英機、小畑敏四郎、永田鉄山の三人は欧州を視察。1日で数万人の死傷者が各国に出たという情報に驚愕、20世紀の戦争が従来とは全く異なるものであることを認識した。この三人に加え、山下も石原莞爾も欧州の日本大使館に滞在しており、国家の在り方、医療、教育、文化的な生活、年金制度、失業対策、住宅対策など多方面での国民生活の水準の差をも認識して帰国した。山下、東条はスイス、ドイツに駐在経験があり、山下はオーストリア公使館付武官の経験もあり、陸軍のなかで最高の欧州通であり、最も有能な将としての器と評価されていた。

2.帰国後、山下は、「日本の空軍力の立ち遅れを指摘、併せて中型戦車を軸とした陸軍の機械化を提言、さらにアメリカとの戦争など夢にも考えるべきではなく、対ソヴィエト戦ですら不可能」との報告をしている。この提言内容は先に欧州視察を終えた石原にも東条にも理解されたはずだ。

3.当時の日本の政治の欠陥は国民にアピールする手段も力も政府ではなく、陸軍だけが持っていたという悲劇。そこには救いがたい視野の狭さや独善があった。陸軍を傲慢にさせた要因こそが日本の本質的な問題だった。

4.日本の人口増加について:明治33年4,300万人、大正9年5,500万人、昭和5年6,400万人。

5.大正から昭和にかけ、日本は農業国から工業国へと転進を図り、都市化も進捗したが、社会構造はそれだけ複雑になり、硬直化もした。明治の日本の素朴で単純、かつ総合的で、横断的な構造だった社会が崩壊していく過程だった。官僚組織化による分断、極限的状況に対する危惧は19世紀欧州には既に存在していて、彼らが、そうした状況の打破に心を砕いていたのとは異なり、日本はゼネラリストが必要との認識が希薄だった。士官学校にも陸軍大学にも教養的な教育は存在しなかった。

6.山下は巨漢だったが、それは母親が20貫(75キロ)という体重の大女だったことによる。山下は巨躯ではあったが、神経は細やかで、人の面倒見がよかった。ただ、松本清張は2.26事件に関与した山下を「青年将校におもねる小心な男。巨躯や風貌とは違い、片手にマッチ、片手に消化器をもつ曲者」と評している。

7.シンガポールでのイギリスとの降伏会談時、イギリス側が山下が出した細かい条件についてごちゃごちゃ言うのに対し、山下が「日本側が出した条件を全部飲むのか否か、イエス、オアー、ノーで応えろ」と怒鳴った態度が、日露戦争時に乃木大将がロシアの敗将、ステッセルに対した処遇と比較され、山下の評判を著しく落とし、日本国民から悪感情をもたれたという。

8.シンガポールを陥落させるにあたって、最も手強かったのはイギリス軍よりもむしろ華僑たちの義勇軍で、部隊のなかには女も子共もいた。ために、司令部からは「3日間で、危険な華僑を粛清せよ」との命令があり、憲兵隊は華僑4,5千人を処刑したと報告したが、これは憲兵隊の大本営への諂(へつら)いを含めた水増し報告によるもので、実際は1千人前後だったといわれる。ところが、この処刑が戦後に国際法的にも人道的にも大問題と化した。戦後のGHQによる裁判では、捕虜に日本兵が牛蒡(ごぼう)を食べさせたり、ビンタしたというだけの理由で処刑された例もある。

 (戦犯を裁く戦勝国の理屈はどこからも批判を受けないのが相場であり、しばしば復讐劇に変容する)。

9.上記につき、「戦時に敵と立ち向かっているときの人間心理を平時の人間心理から批判したり非難したりするのはお門違いだ」と作者は言う。山本七兵は、「安全地帯にいる人間なら人道的で立派な言辞を弄することができるが、戦地という現場では、ほとんどの人間が豹変する。戦後の裁判においてすら、自らが助かりたいばかりに無実の同僚に罪を着せたりもする」と、山下をかばっている。

10.日本陸軍の最強部隊、関東軍200万が中国に在り、たった25万しか南方に送れなかった事実などは本末転倒も激しいが、アメリカと干戈(かんか)を交えたこと自体、賢い人間のすることではなく、それこそ「盲ヘビに怖じず」と言っていい。

11.敗戦後のイギリス軍による裁判は過酷を極めた。連日にわたって棒で殴る、蹴るを続け、はては「近日中に釈放されるから、日本の家族にそのように手紙を書くように」と言い、手紙が投函されると、直後に処刑するという、世界に「ブリティッシュ・ドミニオン」を築いた大英帝国、紳士道の国民とは思えぬ所作に終始した。(アジアで君臨していたイギリスが日本人に負けたことの屈辱と、対東洋人蔑視からの心理状態から、そうした行為を誘発したのではないか。同じく降伏を余儀なくされたドイツ人捕虜に対して同じ言動をしたとは思えない)。

12.フィリピンの戦地で山下に会った井伏鱒二は、山下の唐突さ、理不尽さを強調し、「つまらぬことに大声をあげる人間」と書いているが、戦争経験のない、戦争の先行きを見通すことのできない作家が、山下のこの時期の心中を忖度できるはずもなかった。

13.山下はフィリピンで散々アメリカ軍を手こずらせた挙句、ポツダム宣言受諾の報に接するや、あえて自決せずにアメリカ軍に降伏の意思表示をする。軍事裁判はフィリピンで行なわれ、アメリカ軍はわざわざシンガポールで屈服させられたイギリスの司令官を呼び、彼が見ている前で、山下を樹木を利用してハングした。

14.アメリカのウェスト・ポイント士官学校には、ヒトラーの写真、ムッソリーニの写真と指揮刀と勲章に並べて山下の写真と降伏文書、軍刀が展示されている。

 作者は最後に、「山下は人情深さにおいても、出世願望においても、悲しいほどに日本の組織人だったといえるかも知れない。そして、そういう善良な人がときに備えている酷薄さもまたふんだんに備えていたであろう」と結んでいる。

 読みながら、なんど表紙の山下奉文の写真を見たか知れない。


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