山本周五郎のことば/清原康正著

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「山本周五郎のことば」(生誕100年記念) 清原康正著
新潮新書  ¥680円

 

 本ブログではすでに「やぶからし」を紹介しているが、さらに「司馬遼太郎と藤沢周平」というタイトルでの書評では、「藤沢周平がまるで山本周五郎の弟のような印象がある」との作者の言葉も添えた。

 本書は山本周五郎作品を簡潔にまとめ、それぞれを可能な限り短く説明し、全貌を描き出そうとの意図で創作されたものだが、新書の薄っぺらなページ数では、意気込みだけが滑っている感が免れがたく、伝わってくるものが、逆に僅かだったのは、与えられたページ数か、あるいは内容が盛りだくさんに過ぎたことに原因があるように感じた。

 ただ、「純文学」とか「大衆小説」だとかいう、いまではあまり使われなくなった言葉がしきりに登場することに、懐かしさととともに、昭和初期という時代の「芸術至上主義」ともいうべき作家たちの自負、矜持をあらためて感じ、そのために自裁した作家や詩人が多かったんだなという思いに達した。

 むろん、山本周五郎はみずから「大衆作家であることに不都合はない」と、堂々とした発言をしていたらしく、「絵だって、音楽だって、芝居だって、映画だって、できるだけ多くの人の耳目に触れたいという念願をもって創造される。 世に問う仕事であるかぎり、世に受容されることを目的とするのはあたりまえだ」と堂々とした意見を述べているのは見上げた心がけ。

 高校時代、国語の試験で、小難しい文章を出題し、傍線を引いた部分は何を意味するのか、作者はなにをいいたいのか、などという設問が多かったことも思い出した。そういうとき、私は常に、人が読んで解かりにくい文章を書く側に問題があるのであって、そのような小難しい本が世に膾炙していること自体がおかしいと感じたものである。そういう作家の作品など死ぬまで読んでやるものかとゴマメの歯軋りみたいなことを口に出した覚えもある。そのくせ、大学生になったとたん、ニーチェの「ツァラストラ」に挑戦、解かりにくいニーチェ哲学にかぶれて、沈潜したのは彼のもつ独特のニヒリズムに惹かれたからだった。卒業して商社を受験、面接時「愛読書は?」との問いに「ニーチェ」と答えたら、「商社とニーチェとは繋がらんねぇ」などといわれ、蹴られた。

 一貫して、人と人の情の機微を描いた作品が多く、この作者ほど「人間の哀しさ、憐れさ、情け」を真摯に考え、慮った作家はいなかっただろう。現代、「5年も住んでいるマンションで、いまだに隣にだれが住んでいるのか知らない」という現実を話したら、周五郎はどんな反応をみせるだろうか。

 周五郎の言葉として「日本人てのは絶望を知らない民族なんだ。なぜなら、日本人は絶望するまえに諦観に入ってしまうから」というのがある。「利器の発明、利器の入手がくりかえし進行するにつれ、人間はいよいよ死滅に向かって奔走する」という言葉が脳裏の奥で躍った。


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