平家後抄・上巻/角田文衛著(その1)

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平家後抄(上)

「平家後抄」上巻
角田文衛(1913年生/古代学研究所所長)著
副題:落日後の平家
1981年 朝日新聞社より新書として発刊
2000年6月10日 講談社学術文庫より文庫化初版
¥1,250(上巻) ¥1,350(下巻)

 

 琵琶法師が語ったとされる「祇園精舎の鐘の声、盛者必衰の理(ことわり)を表す」で始まる「平家物語」は「盛者必衰の理(ことわり)を表す」ことを目的に書かれた内容であり、目的のための虚飾、誇張が多く、また後日書かれた「源平盛衰記」は勝者にとって都合の良い改竄(かいざん)が含まれ、いずれも歴史の真実を曲げた内容になっている。

 一般に、平家が壇ノ浦の合戦で殲滅されたとの印象が強く、生き延びた者たちはそれぞれ離れた土地で、いわゆる「落人部落」を形成したものとの納得もある。

 さらに言えば、源氏と平家とに分かれた決戦だったとの理解もある。

 上記したいずれも史実からは遠く、作者は平家のその後を追うことで、むろん文献、資料を渉猟することによって、真実を告げたいとの意欲から本書を著したという。私が興味を惹かれたのは、作者の意図そのものであり、タイトル通り「平家のその後」があるのだったら、それをこそ知りたいとの思いに駆られた。

 また、本書が、新書が発刊されて19年も経過した後に文庫化された理由は類書がないためであろう。

 読書を始めて「これはちょっと」と当惑したのは、まず第一に登場人物が多いだけでなく、その名も親からもらった名、イミナ、幼名、身分名、官職名、改名したあとの名など複雑で、ほかに家名、土地の名も現在の名ではなく、それぞれ初めに登場するときだけは当時読まれていた通りのルビが振られていはするが、以後はルビがないため、頻繁に同じ人物、家名、土地名が出てくるので混乱が起こり、人物の名を含め、記憶に残らず、そのうえ文章も使われる文字も古臭く、それらが読書を続ける上での難点になっている。

 とりあえず、ここまでで理解できたことは、「壇ノ浦の合戦」は朝廷の近くに在って、護衛の任務も担っていた平家にとっての逃亡劇だったこと、ために当時はまだ子供だった安徳天皇のほか、武将や兵のほかに、家族(子女を含む)や僧侶までが同道していたこと、平家の総帥や武将のほか、子女の多くが捕虜にされ、義経とその配下によって護衛されつつ今の桂川を遡り、京に至り、武将らは都大路を引き回されたことだ。

  義経は「天才的な戦略家」という評価を作者もしているが、私は上記した子女を同行している軍団などを蹴散らすのはわけなく出来ただろうし、有名な「ひよどり越えの逆落とし」も単なる奇襲であり、そこに天才を感ずるのは奇襲の好きな日本人的発想でしかないと思う。

 ただ、本書を通じ初めて知ることは僅かではなく、たとえば、「源平の戦い」であるから、源氏と平家とが、真っ二つに分かれて戦をしたのだとばかり思っていたが、実際にはそうではなく、源氏側にも平家の人間が同調していたり、平家の側にも源氏姓の武将が従っていたりし、主に皇室や公家を中心とする複雑な人間模様が存在したことなど初の知見だった。

 (もう一つは、当時の食料事情からして関東を含め、ほとんどの地域は武家と農家とがはっきり分かれているはずはなく、武家も土地開発に積極的だったわけだが、土地を農地に開発すると、そこも中央から租税対象にされ、そのことに納得できなかったという点では源氏も平家も同じだったこと。一方、関西では朝廷を中心に公家文化が存在し、すでに市も立っており、一部では商業活動がすでに始まっていたという格差があった。一時代前の戦争で源氏が平家に敗れたため、朝廷を中心とするエリアは平家の睨みが効くところとなっていた)。

 義経が平家側の捕虜のトップ集団を護衛しながら鎌倉に連行したとき、源頼朝から「おまえは鎌倉幕府内には入るな」との厳命を受け、24日も待たされたあげく、結局は会ってくれず、京に戻ったはいいが、そうした事態が、自分の戦績に対する頼朝の嫉妬であることに気づいていず、あげく京にもどった後、公家の高官の娘を第二の妻として、兄に報告すらせずに受けたことなど、義経に大人としての判断能力がなく、きわめて幼児性の強い男だったことがわかる。

 鎌倉以降、日本人のトップアイドルになった義経がいかに好色だったかなどという醜聞は、長いあいだ知られていなかった。

(白拍子との恋物語ばかりが強調されているのも過剰な虚飾であり、でっちあげに過ぎない。こうした虚飾を好んでするのが日本人の性癖というべきか、同じことは歌舞伎にとりあげられた「赤穂浪士の討ち入り」にも言える)。

 また、「落人部落」を自称する土地は日本各地に存在するが、確証に乏しく、民俗学的には意味があっても、歴史学としての重要性はない。なぜなら、その後の日本史の展開に寄与することは全くなかったからだ。ただ、壇ノ浦での敗戦の後、逃亡を図った平家の公達が西へ、九州、四国方面へ向かったであろうことは容易に推測できる。)

 余談だが、私が沖縄に赴任していたとき、南の離島、宮古島に「藤原」という姓があることに驚いた。那覇の人がためらいもなく「藤原は宮古の姓である」と言うのに対し、私は密かに「平家の藤原姓の者が宮古島まで逃げたのではないか。よっぽど気の小さい人だったのではないか」と思ったものだが、正否に関しては保証の限りではない。後半部分に「平家谷」について書かれているので、ひょっとすると私の勘が当たっている可能性もあるだろう。

 難渋しながらも、「平家のその後」に関しての興味は尽きないので、さらに読み進め、いずれ再び書評したく思っている。そのために、本書評を「その1」とした。なお、本書は上下巻とある。


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One Response to “平家後抄・上巻/角田文衛著(その1)”

  1. Miroku より:

    これは読みたくなる内容ですね。
    このあたりの話は、断片的に思うこともあるの
    ですが、トータルとして考えた事が無い。
    漠然とした興味のまま放置しています。
     記事を読んでいて、この本に興味が湧きました。

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