平家後抄・上巻/角田文衛著(その2)

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「平家後抄」上巻 書評その2

 はじめに源平の合戦につき、年代を記す。

 1180年5月  頼朝、挙兵

 1180年10月 富士川の戦い

 1183年7月  木曽義仲、入京

 1184年2月  一の谷の合戦(ひよどり越えの逆落とし)

 1185年2月  屋島の戦い

 1185年3月  壇ノ浦の戦い(安徳幼帝の入水)

 1189年     頼朝の奥羽追討

 源平の戦いに関しては、過去に源氏を中心とした書物しか読んでいなかったため、源氏の武将の名は記憶にあるが、平家の武将はもとより、妻子の名などについては全く知らなかった。清盛、重盛、維盛(笛の名手)くらいしか、私の知識にはない。

 源氏だったら、梶原景時、畠山重忠、新田義貞、那須与一、武蔵坊弁慶など、すぐ思い出すのだが。尤も、頼朝に従ったのは源氏の武家ばかりではなかったから、このなかに平家の武家がいるかも知れない。

 以下は、関心を惹かれた箇所だけを列挙する。正直にいうが、かなり偏った読書になったと思う。

1.清盛の娘、藤原朝臣徳子は安徳天皇の母親。安徳幼帝が壇ノ浦で入水したとき彼女も入水したが、源氏の武将に彼女だけ救助され、捕虜となって都に戻る。

 平家の残兵が各地に散った後、京都は地震に見舞われた。

 徳子は京都の北にある寂光院を居所と決め、出家して名を「建礼門院」とあらため、3,4人の女房にかしづかれつつ幼帝を弔った。彼女のもとには同じ運命を背負った多くの人が訪れ、悲しみを共にした。頼朝も建礼門院を国母として粗末には扱わず、体面が保てるほどの土地を与え、配慮した。

 後白河法皇も大原への御幸(みゆき)と公表し、序でにといった風を装い、建礼門院を訪ねたといわれる。

 当時の武家は源氏でも平家でも、男は幼児でも処刑したが、女性を処刑することはなかった。

 徳子の娘、貞子は当時としては破格の寿命に恵まれ、107歳まで生きたが、このことは鎌倉時代の始まりから終焉までを見、経験し、体感したことを物語っている。

2.壇ノ浦で義経が勝利した最大のポイントは、平家方の武将の一人、四国の田口成良が寝返り、兵船300艘を提供したことにあるが、義経は戦後に成良父子を捕虜に加え鎌倉に連行した。(義経のアホさ加減がここにも見える)。

3.義経は頼朝との仲が険悪なこともあり、平家の残党狩りに熱心ではなく、ために頼朝は鎌倉から北条家の平時政を都に派遣し、厳しい残党狩りを行わせ、都合70人を捕縛した。ただ、壇ノ浦に参加しなかった平家の人間と事前に僧籍に入っていた人間は処罰の対象とはされなかった。(だったら、まず、300艘の船を出してくれた成良の功を評価すべきだろう)。

4.個々の将士の武勇にかけては、平家も源氏に匹敵するパワーを持っていたが、平家首脳部の拙劣な作戦が、義経の軍略の足元にも及ばなかった。

5.北条氏はむろんのこと、三浦氏、土肥氏、千葉氏、畠山氏、長崎氏らは早くから坂東(関東)に土着した平家の出自。長崎氏は、現在の伊豆田方郡韮山町長崎に起こった家。

6.落人部落のことを「平家谷」と称するが、全国に百数十存在する。谷間に多くあるため平家谷というが、実際には谷間に限定されない。分布の濃厚なのは九州、四国、中国の三地方で、ほかに対馬、屋久島、琉球列島にも少なくない。北限は宮城県の鳴子、鬼首(おにこうべ)。

 幣原亘博士の研究によれば、南走説を詳しく述べ、硫黄島、石垣島、与那国島に平家伝説の地があることを指摘している。さらに、沖縄の島袋源一郎氏は宮古島の北端、狩俣にも平家の人間が漂着したという説を紹介している。

 (宮古島に藤原姓があるという話を「その1」で紹介したが、私の勘が当たっているのかも知れない。言語学者によれば、沖縄の方言は基本的に大和の鎌倉期の言葉が、石を池の真ん中に落としたときに生ずる波のように、時とともに遠隔地に伝わっていき、その間に、間違って伝えられたり、訛ったりして出来上がったとされる。那覇、首里で使われる「メンソーレ」は「いらっしゃいませ」との意味だが、語源は鎌倉時代の「参り召し候え」であり、与那国島の人は今でも腕のことを「かいな」と言うし、宮古島では「性交渉」を悪い言葉として「マグー」というが、これは明らかに「まぐわう」からの転化であろう)。

 平家が壇ノ浦で全滅しなかったのは、合戦が終盤に入ったとき、潮が東から西へと急流に変化したため、乗船していた者たちが逃亡できたことに疑いはない。

 平家谷として名高いのは、四国、祖谷の何佐・久保の両家、能登半島の時国家で、いずれも蝶紋を用いている。

7.義経ら一向の奥州平泉までの行程は、「義経記」などでは北陸道とする説を採っているが、女連れで兵略に長けた義経があえて険路を選ぶわけがなく、おそらくは敦賀あたりから乗船し、出羽の国、酒田ないし吹浦あたりで船を降り、平泉に向かったとの推測が当を得ているのではないか。

8.平家にも二つあり、一つは桓武天皇を祖とする平氏、もう一つは高望王を祖とする平氏で、後者は10世紀の前半には地方に進出、延喜・天暦の時代には勢力を扶植し、武士の棟梁となり、前者は朝廷の官人となり、連綿と明治に繋がっている。頼朝の武将の一人、梶原景時も実名は平景時。

9.頼朝が逝去した後、各地で反乱が起こったのは事実だが、いずれも小規模だった。

 以上で、「平家後抄」上巻の書評を終える。総評は下巻読了後に行いたい。


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