平家後抄・下巻/角田文衛著

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平家後抄・下巻

「平家後抄」下巻 角田文衛(1913年生)著
1981年 朝日新聞社より単行本
副題:落日後の平家
2000年9月 講談社学術文庫から文庫化初版

 

 登場人物が多岐にわたること、それが煩わしいことは、上巻の書評に記したが、下巻はその感が一層強い。かなり飛ばして読んだことを告白せざるを得ないが、以下は関心を惹かれた部分だけを抜粋。ただし、文章については私が勝手に手を入れた部分があることをお断りしておく。

1.朝廷の貴族らは、平家の軍事力、政治力が壇ノ浦の戦いで消滅した後、平家への懐かしさを深め、藤原降房(妻が清盛の娘)が編集の責任者となり、「平家公達草紙」をまとめ、後世に残した。内容は人物や家門に対する鎮魂歌の意味を帯び、背後にはそれぞれの叙述者のとめどない慟哭の声がある。

 瀬戸内海や有明海に分布する蟹を「平家蟹」と命名した心情と相通ずるもので、滅び去った者への哀憐、栄枯盛衰への無常観が込められている。

2.1185年、平家との縁故の深い僧侶、延臣が配流されたが、1189年には頼朝が奥羽を平定し、全国的に制覇を成功させるためには朝廷の支持が必要だったこともあり、配流から4年後には、朝廷の意向を受け容れ、流人を召し返した。(配流のなかに世に名高い俊寛の名が出てこないのは不可思議)。

2.頼朝の朝廷への要求には平家の六波羅探題政権のような妥協はなく、かつ文華的なものもなく、朝廷はやむなく、頼朝を日本国総補使、日本国総地頭に任命、国有領、荘園領の別なく、兵糧米の徴収権限も与えた。

 さらに、義経が朝廷にあったときに近臣だった延臣らを流罪に処し、摂政、基通を馘首、頼朝派の右大臣、兼実を摂政に任じ、十名の公家を指名、議奉に補した。

 後白河法皇はこれら人事を受け入れはしたが、権謀術数に長けた人物で、もともとの側近による政治姿勢を変えようとはしなかった。

 とはいえ、1192年には、頼朝を「征夷大将軍」に任じている。

3.政権が安定するにつれ、頼朝は皇室の外祖父になろうとする野望をもち、中納言の源通親に親書をつかわし、娘(北条政子の生んだ子)である大姫の入内(じゅだい)について斡旋を依頼したが、これが実現することはなく、1199年に頼朝は53歳で他界。

4.1204年、伊賀、伊勢の両国に「平家の三日天下」が勃発、叛乱軍は1000人に及んだが、朝廷は手間どりながらも200騎ばかりで伊勢に入り、鎮圧に努めたが、すべての異分子を追討、払拭するには至らなかった。

5.頼朝が鎌倉幕府の創設に最大の功労者であったことは事実だが、ことが成った暁には、北条にとって頼朝は不要の人物と化した。頼朝の死因が毒殺だったという説もある。

 妻だった北条政子は夫よりも北条家をより愛する、権力志向の強い女だった。とくに、頼朝が娘を皇室に入れようとしたことは彼女にとって許せぬ行為だった。政子は日本史上、稀に見る毒婦で、鎌倉家抹殺計画の首謀者であり、着実に成果を挙げた。

 頼朝とのあいだにできた実朝すら、暗殺対象であり、実朝自身も近い将来の自身の横死を覚悟していたといわれる。

6.頼朝は清和源氏の石川流を祖とする家柄だが、この家系は代々にわたり、家系内の血なまぐさい関係が恒常的にあり、呪われた家系といわれる。(木曽義仲が京都で殺され、義経が平泉で殺されたのも、一例に過ぎない)。頼朝が北条氏にとって単なる金看板だったことを実朝は知悉していた。政子は父を追放し、甥を惨殺し、息子(実朝)を殺戮した非情な政治家。

7.頼朝に忠誠を尽くした御家人らは愕然として、自分たちの鎌倉幕府成立への命懸けの争闘が北条家の政権を確立することに寄与しただけのことだった事実に覚醒したものの、大方は今さら北条に弓を引くことはなかった。ただ、北条を見限り、官軍に馳せ参ずる御家人はいた。

8.1221年の「承久の乱」は北条家に対する不満分子を傘下におさめた天皇が仕掛けた戦だが、結果的に手痛い敗戦に終わり、政子による厳しい処分に甘んずることとなった。三人の上皇は流罪、天皇は廃嫡の上、外祖父の藤原道家の九条第に移された。謀議に加わった公卿らは六波羅に連行され、鎌倉へ下向の途次に殺戮された。

9.実朝の一人娘(ときに28歳)は政子の遺言通り、頼経(13歳)と結婚、妊娠はしたが死児を産み、みずからは数時間後に逝去した。これにより、源頼朝の家系は完全に断絶した。死児を産んだことも、母親が死んだことも、人の手が加わったものか否かについては諸説あって断定できない。

10.13世紀後半、朝廷内では西園寺家と四条家の隆盛が絶頂を極め、幕末に至って、四条家は七卿落ちの一人となり、征東使に加わり、鎮撫使総督などとして活躍、明治には陸軍中将に栄達、侯爵を授けられた。

 以上見てきたように、明治、大正、昭和と続いた平家の家系は、ほとんどが朝廷に存続した人であり、「壇ノ浦」が「平家の絶滅」を意味しないことが理解できる。

 本書には「女院らのその後」という章もあったが、そのことは朝廷に残った平家の女性らが多く実在したことをも暗示しているが、どの名前にも親しみがもてず、私はその章を無視して読み進んだ。

 「稀代の労作」と評価はできるものの、興味の有無よりも、内容の煩雑さ、登場人物のあまりの多さに往生する。


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One Response to “平家後抄・下巻/角田文衛著”

  1. 関西より より:

    北条政子って恐ろしい存在だったんですね。このあたりの話って日本史の授業レベルしか知りえませんので。
    今更ですが、三国志を読んでいます。

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