性愛奥義・官能の「カーマ・スートラ」解読/植島啓司著

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性愛奥義・官能の「カーマスートラ」解読

「性愛奥義・官能のカーマ・スートラ解読」
 植島啓司(人間総合科学大学教授)著
 講談社現代新書 2005年8月初出

 

 インドの文献に接したのは初めてだが、バリ島でしばらく仕事を経験したことがあり、同じヒンドゥー教の「ラーマー・ヤナ」の物語については多少の知識はあったが、「性愛」「官能」を説く「カーマ・スートラ」については全く知ならなかった。 ヒンドゥー教がインドネシアに持ち込まれたとき、「カーマ」は意図的に外された可能性がある。バリ人は総じて恥じらいの強い民族だから。(ただ、カーマとはカルマとも発音し、罪、罪悪との意味もあると聞いている)。

 確かに、男女の性愛や官能のあるべき方法、手段、手練手管、技術、そういうものはどこの世界でも(わずかな例外はあるものの)秘匿され、教えて語ることそのものが卑猥な言動とされる。だから、そうした男女のことを詳細に、十全に触れた文書はない。

 仏教が悦楽の価値を斥け、厭世主義であるのに対し、ヒンドゥー教は快楽の享受を正当とする世界観を創った。「キリスト教教会が性のもたらす罪の百科事典を編纂しているとき、インド人たちは官能の事典を編んでいた」という、猛烈な皮肉。ただ、西欧で禁欲に走ったには、性欲に強すぎるほどの関心が背景にあったからだという点も見逃せまい。なにせ、東洋人の男の睾丸が平均10gなのに対し、西欧人の男の睾丸は20gもあるのだから。

 「セックスは生の一部ではない。生がセックスの一部なのだ」という言葉は、18世紀のシャルル・フーリエにも、同時代のディドロにも通ずるものがある。

 フーリエはいう「純愛とか貞節とかは自分たちさえよければよいというエゴの特化した心理状態」であると。「結婚から生まれる偽善は必然だが、快楽を求める精神は社会の抑圧的な慣習によって否定され、犯罪にされてしまう」。 

 ディドロは「一婦一夫制は自然の全体秩序の冒涜。男と女を一対一でいつまでも縛りつけて、互いの自然と自由を踏みにじっている」といった。 この制度があるからこそ、他人の妻ほど容易に落とせるという。生涯の伴侶をたった一人に限定すること自体、欲望多き人類にとって適切な制度ではないという説はむかしからあるし、現代もある。そして、一理も二理もある。 といって、一夫多妻も、一婦多夫も制度として認められることは、ある一定の地域、一定の宗教を信奉する地域を除いて、少なくとも当分はないだろう。

 男と女がオスとメスでいられるのは、一般的には、ほんの5、6年、互いが性交の快楽を別の相手に求めても、それはむしろあたりまえだという人もいる。 だから、10年経っても、30年経っても、同じ相手との性交渉に飽きないという人は稀でもあるし、「奇跡に近い」というより奇人か変人といったほうが正しい。

 著者はいう「とはいっても、なにもかも自由になったら、社会がユートピアに向かうのかデストピアに向かうのかわからない」と。

 著者の「好きな女を得るかわりに大事な何かを失うかも知れない覚悟と、もう後ろにはもどれないという潔さこそがモテるための条件」というのも納得がいく。

 貞操帯を発明したのはイギリス人だが、われわれ一般の理解では、妻の浮気防止のために、男が勝手につくったものというイメージだが、「陰毛を剃毛され、すっきりし、あそこに貞操帯がぴったり貼りつけられている感覚はなんともいえない」といった女性がいるし、貞操帯を固定するためアナルにプラグを挿入するケースが多く、セックスの自由と同時に便の排出、そしてオナニーまで相手がカギで外してくれないかぎりできない状態にも拘わらず、「そんな風にされると、いつも彼のことばかり考えるようになる。それが嬉しい」と感想を口にした女性もいる。 彼女らの感想には、アナルにも性感帯が存在することを示唆しているの同時に、人間とはなんと不思議な生物なのかと思わせるものがある。

 はたから見ていてはわからないことというものが世の中には存在するということを認識する機会になった。

 セックスのことはまことに奥が深い。

 「カーマ・スートラ」は性技百般を示したものというイメージでいたが、男女の精神世界、心理的なことにも触れていて、イメージを変えるチャンスにはなったが、内容については著者の懸命の説明にも拘らず、よく伝わってこない。

 中国の古代書は「交接に勝るものなし。官位、功名など遠く及ばぬ」と伝えている。これはこれで、官能の至福を絶賛しているのだから、それはそれで一つの生き方だ。

 ローマのオウィディウスは「女も望んでいる。女には体を開く口実や理由を与えてやればいい。男よりも女は激しく、性感も長く、女はより熱狂的で、多淫である」と喝破した。

 パリではスワッピング(スィンギングともいう)が流行、恋人や妻の交換をすることでカップルに性的な興奮を新たにするという目的だが、これもいきすぎるとエイズの温床になる。

 カサノヴァは「官能を深めることは常に私の主要な仕事だった。それ以上に重要な仕事はなかった。自分は女性のために生まれてきたのだと自覚し、常に女性を愛し、愛されようと努力する」と。

 正直に申し上げるが、「カーマ・スートラ」それよりも、上記したフ-リエ、ディドロ、カサノヴァ、オウィディウスなどの言葉のほうが私を惹きつけた。

 日本社会では結婚すれば生活と仕事に追われ、年の経過とともに、どのカップルも性愛や官能の世界から遠ざかる傾向がある。とはいえ、二人が性愛や官能を嫌いというわけではない。われわれは加齢はしても、やはり生身の人間である。 一般的にどの個人も、己の狭い体験と、目や耳から入ってくる情報を駆使して、ときに試してみたりするものの、試行錯誤を繰り返すものだ。 そして、往々にして、男が新しいことを試す相手は妻ではない。 また、妻の側も、新しい性技を知るのは夫によってではない。

 女性の場合、性愛や官能を説いたり話したりする上で難しいのは、個人が千差万別の性癖と好悪をもっていること、もう一つは相手が変わりさえすれば新たな官能の芽が萌えること、さらに、年齢や経験の積み重ねによって、性的感覚に変化が起こることだ。この事実は人の指紋がみな違う程度のことではない。もっともっとはるかに深遠で複雑なものを包含している。

 目の玉を舌で舐められるのが好きな女がいるし、足の指をくわえられ、しゃぶられるのが好きな女がいるし、激しく挿入を継続することを欲する女もいるし、挿入したらじっと動かないことを求める女もいる。それが、一年経ち、二年経つうちに嗜好に変化がみられ、思いもよらぬ興奮の絶頂をあらたに知る女もいる。

 ヴァギナよりも肛門性交が好きになる女もいるし、そのどちらよりもヴァギナと肛門のあいだにある蟻の門渡り(会陰)に触れられるのが好きになる女もいる。髪の毛を愛撫されるだけでぐしゃぐしゃに濡れる女もいるし、キスしながら男の太腿を自分の太腿で挟みつけているだけで頂点に達する女もいるし、脇の下を舐められるのが好きな女もいる。

 これら複雑きわまりない人間の性愛、官能というものを、だれもが納得のいく形で白日のもとにさらして欲しいところだが、女の性が千差万別であり可変的である以上、無理というものかも知れない。だいたい、女同士で、官能のありかたについて議論しても互いに比較を超えたものがある以上、結論は出ないだろう。たとえ、女性の側が正直に答えてくれたとしても、百人の女性にインタビューすれば百の答えが返ってきそうな気がする。

 官能と性技に関して、完璧なガイドブックを創作するなどは不可能に思うのだが、著者はある意味で特殊な関心事を抱く専門家だから、本書に勝る、さらに雄弁で、十全に納得できる「性愛と官能」を遠くない将来、世に問うてくれるかも知れない。


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