怪盗メイソン・宝石泥棒の告白/ビル・メイソン

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怪盗


  「怪盗メイソン・宝石泥棒の告白」 

  原題:[Confessions Of A Jewel Thief] 

  ビル・メイソン/リー・グルエンフェルド共著((アメリカ)

  訳者:田村明子  2006年7月集英社初版 単行本¥2,400

 一般大衆には、犯罪の内容によって不平等というか、不当というか、そんな感覚がある。

 冒された犯罪が殺人や傷害ではなく、金銭や宝石の天才的ともいえる盗みの場合、犯罪としては同じではあっても、なぜかそれほどの怒りや憤りを感じず、反社会的行為でありながら、「よく、やった。捕まるなよ」と、応援するケースすらある。

 むかし日本で起こった三億円事件などはその好例といっていい。 そこには、自分は被害者ではない、自分には被害者になれるほどの金銭も宝石もない、被害者は元々大金持ちで、被害そのものも被害者にとっては大したものではないだろう、「いい気味だ」という、ねじれた感情が否めない。 大衆の、持てる者に対する嫉妬であり、ねたみである。 むろん、「いい気味だ」と思う感情には「ざまぁみろ」という快感も伴っている。

 映画にしても、泥棒が宝石を盗む計画をたて、防犯のための各種の設備をクリアしながら実行段階に移ると、聴視者はドキドキしつつ、犯行がうまくいくように祈ったり願ったりする。また、そういう映画が人気を得、映画として成功したりもする。

 本書の主人公、メイソンは刑務所務めはしたことはあるが、窃盗という罪ではないし、窃盗罪で逮捕されたということでもない。 現実は窃盗以外の殺人事件も傷害事件も強姦事件も起こしたことはなく、窃盗しかやったことがないのにである。 つまり、彼は現場にまったく証拠を残さず、目撃者もいず、盗品の売買にも証拠を残さしていないのだが、警察はメイソンに対する憎悪の塊となって、アメリカ社会らしいやり方で、でっちあげたり、脅かしたり、おとりを使ったり、異なるイメージをつくったり、メディアに適当なことを伝えたり、そういう汚い手法を使って彼を逮捕、「やってないことをやったことにされて」拘置、刑務所送りとされるが、短い期間の忍耐を必要とはしたが、出所している。

 その意味で、アメリカの大衆もメディアも最終的には彼を「史上最も凄腕の宝石泥棒」と賛美し、傷害も殺人も犯していない事実を誇大に評価、大衆から喝采を浴びる。

 本書の読者はメイソンの人柄に次第に親しみを覚え、物語の展開に心を躍らせ、彼の人生がうまくいくように祈りだす。もっとも、主人公には愛する妻も子供もあり、きちんとした仕事もある。 「なぜ、危険で、不名誉な泥棒などという犯罪に手を出すのか」との自問に、「それはスリルへの欲望」であり、「一種の病気」だという。 どのような天才にも特殊な体質があり、なにをやっても人一倍の仕事ができるのに、横道への欲求を抑えることができないという、そういう人間も世に絶えたことはない。

 本書は二人の共著となっているが、たぶんメイソンが語り、リーが聴取して書いたのではないかと思われるが、ほとんどのノンフィクションがそうであるよりもはるかに真に迫った描写が連続し、(例外は第二部の弁護団とのごたごたで、この部分にはややうんざりするが)、家族や友人、知己との人間関係に触れている部分にも主人公の豊かな人間性を感じさせ、荒々しい暴力的なシーンなどとはまったく無縁であるにも拘わらず、物語の展開に魅入られたように、最後まで息つく暇もなく、読みきらせてしまう牽引力はさすがというしかない。

 メイソンが語る話のなかで興味を惹いたのは、「防犯設備の整ったマンションなり豪邸なりに住んでいれば、そのこと自体が居住者は現金と貴金属を多く所有していると宣伝しているようなものであり、そういう人物は高額で整えた防犯設備を過信し、だれよりも油断している。そして、不思議なことだが、泥棒が入ってくるとしたら表玄関から入ってくると思っているらしく、表玄関の防備が最も厳重だが、表玄関から入る泥棒も空き巣も世の中にはいない」と、せせら笑った言葉。

 さらに、「プロの手品師たちにとって、観客の知的レベルが高いほどだましやすく、目をあざむきやすい」というのも真実であり、「UFOを信ずる人はもっと現実的な結論を導きだす想像力が欠落しているからだ」といいきれる点にも、賢さを感じさせる。

 防犯設備や施設、ガードマンなどを売り物にしていたり、管理したりしている企業は、それが難なく破られて犯罪が冒されたとき、決まって「侵入し得た人間は魔術師としかいいようがない」などとエクスキューズをし、みずからに非や管理上の欠陥があるとの自覚を披瀝しない。

 ただ、作者がさいごに語る言葉が印象に強い。「私は人を傷つけたり、殺したことは一度もない。ただ、あらゆる防備をかいくぐって他人の屋内に侵入をはかり、そこにある宝石を盗むことに、はかり知れない快感を覚えた。 いまとなれば、どこの誰とも知れない他人に、自分のプライベートな空間に侵入されることがどんなに不快なことか、ことに冷蔵庫にあったはずの缶ビールが空になってテーブル上に放置されている図を目にしたら、そうした不快感は一層増しただろう。 どこを、そして何を、どのように見、触れたのか、そうした想像も不快を増幅したであろう。スリルを求めて盗みに集中していた時代には考えもしなかったが、被害者のそうした気持ちというものを、私は後日になって憶測するようになれた」。

 私がかつてオン・ビジネスで頻繁に訪れた都市、アトランタ、クリーブランド、フロリダ(タンパ、マイアミなど)などが本書の舞台ともなっていて、懐かしさに吐息したことも再三だった。

 久しぶりに、面白いドキュメンタリーに出遭えたという気持ち。


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