恨(ハン)の人類学/崔吉城著

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ハンの人類学

「恨の人類学」 崔吉城(1940年韓国生/韓国人/広島大学総合科学部教授)著  訳者:真鍋祐子
平河出版社 1994年8月20日 単行本 ¥3900+税
副題:韓民族の心のひだに深く沈殿してきた情念、やり場のない悲しみと果たされなかった夢の憧憬
帯広告:恨のメカニズムを解明/儒教的な体系から逸脱した社会構造の暗部
(※写真は崔吉城氏のホームページより拝借)

 学術的な書物の嫌いではない私でも、タイトルからは想像もつかない内容(たとえば、日本との比較論ではないはずが、執拗な比較に執心したり、しきりに日本の文学論や作家論などを持ち出す内容)と、くどい説明に辟易する気持ちを自制しつつ、ページを繰り、何度も一息いれるという読書になった。

 原因は、私自身の本書の入手目的が韓国社会と韓国人の心情を知りたかったという一点にあり、ために、他国との比較論が、それぞれのテーマごとに実態、歴史、統計値、相違点、共通点などにまで踏み込んでの執拗な解説に、タイトルからの逸脱感が拭えず、正直、往生した。

 日本語では「恨」という言葉を単独で使う例はほとんどなく、われわれは「恨む」「怨恨」「恨み辛み」といったように使うし、作者が韓国人であることもあり、内容は韓国社会に絞られたものと早合点したのは私の性急さのしからしむるところ。

 飛ばし読みしながらも、心を惹かれた部分だけを以下に箇条書きにするが、韓国以外の実態や状況に触れた部分はできるだけ避けたこと。また、本書が出版されたのが1994年であることは、執筆されたのはそれよりもさらに数年前であり、今日まで20年近い時間的経過があること。当然ながら、現状とは必ずしも合致しない部分もあり得ることを脳裏に置き、文章には私の裁量で手直しした部分のあることをも併せ諒解しつつ、読んで欲しい。また、(   )内は私の意見:

1.「韓国人の恨」は「恨五百年」とも言われ、農耕集落社会の宿命観と諦念、愁心、敗北の意識の関係、そして弱者と男尊女卑の基本情緒に概括される。泣くことは、笑うことと同様、生理的現象であるのと同時に、文化的表現形式でもある。

 韓国の「恨」という概念は韓国以外のどこにもない固有のもので、この国の歴史は人々の心の痛みをつのらせ、沈めてきた、ほとんど遺伝に近いものとして蓄積されてきた過程であり、韓国社会の暗い一面のひとつ。

 日本でも江戸期には法的にも許されていた「敵討ち」だが、韓国では殺人行為は犯罪として明確になり、それが明らかな違法ではあっても、近親者を殺害された場合の復讐として、リンチ行為でありながら倫理的な情状酌量の対象になり得る社会的基盤が存在する。

 「恨」は被支配階級、下層階級に深く根ざしてはいるが、韓国における復讐的メカニズムは日本より弱い。

 (この断言は不可解。江戸期に限るなら納得がいくが、大戦後の日本に復讐を容認するような社会的実態は残念ながらない。だらしがない、情けないと思うほど、現在の日本人は「戦争はもうこりごりです」という。だから、作者はなにかを誤解している)。

 (私には、また、韓国に固有な「恨五百年」は、中国からの儒教の影響に加え、この国の歴史に強く影響されているように思われる。半島状の国が大国と国境を接している場合、長期にわたって、たとえば中国の歴代の皇帝や王侯のみならず、ロシアやモンゴルからも圧力やいじめが頻繁にあり、半島状の土地では追い込まれるだけで逃げ場がないという状態に陥る。モンゴルが中国を支配、創設した元からは朝鮮半島の樹木を伐採させられ、日本を攻めるときの数百艘におよぶ造船と、操船、兵の供出を強いられ、近代には日本に併呑されたという歴史すべてに耐えなければならなかった運命が根にあって、そういう歴史が強いた被害者意識が「恨」を生んだ要素の一つではないかと思われる)。

2.韓国では「鳥は鳴く」と言わずに、「鳥は泣く」という。また、日本ではホトトギスの鳴き声を春の到来と併せ、喜びの対象として聞くが、韓国では、物悲しく泣く野鳥と捉え、「ソチョッタン、ソチョッタンと泣く」という。

 「泣き」には声をたてない「すすり泣き」「咽び泣き」と、声を上げて泣く「慟哭」があるが、韓国の葬儀では、参列者は「哭く」ことが当たり前で、男は概して形式的に哭くが、女性は本心から慟哭するのが一般的。ある意味で、「哭く」ことを強いられる。「哭きは葬儀には必須不可欠」との考え方があるため、場合によっては代哭(替わって哭いてくれる人)を雇う場合すらある。

 哭き方にも礼儀と作法がある。哭きの斉唱、合唱まである。韓国人は感情的特性の強い民族であり、悲しみや苦痛の感情を哭くことによって表現する。流行歌にも影響し、日本における「演歌」が、韓国では「怨歌」となる。

 (韓国に知己がいても、葬儀にだけは参列したくないという気持ちになった)。

3.韓国人には旧習を守ろうとする姿勢が強く、迷信から脱却しようという意志も希薄。病気になると、鬼神のせいにし、「逐鬼」の儀式を行なう。

4.「性差別による恨」

 韓国では未婚で死んだ女性の怨霊が最も恐ろしい存在と映り、葬儀には手を尽くすのが通例。

 韓国社会は厳格な父系制度。女は結婚したら、外部の男性はもとより、親族間にあっても男性との同席は許されない掟になっている。女性自身も、これを肯定的に捉えている。ただ、女には離婚の権利はなく、「一夫従事」が課され、男には離婚の自由があるという不公平がまかり通っている。それが女性に「恨」を植えつける一つの要素にはなっているが、「恨」は女性を人間らしくする基本的な真理構造との判断と諦念と納得がある。

 (韓国女性に整形手術をする人が多いことや、街に整形医が多いのは、外見だけで人格まで判断されるような社会的欠陥があるからではないか。「美人でなければ女ではない」といった)。

 ある母親は、夫が田んぼで地主に肋骨を蹴られたことが原因で死んでも、自身が男らに暴行や辱(はずかし)めを受けても、息子らが長じて地主に報復したために刑務所送りになっても、母親はあらゆる怨恨をひとり胸のうちにおさめ、自虐的な生き方に徹する。これが韓国の母親像に共通した人格。さらには、母のもつ怨恨を子供らが財産のように相続したり、共有したりするのも儒教の教える「孝の道」という捉え方をする。

 (儒教を発信した中国には韓国人が儒教をベースに社会的倫理観を構築した礎みたいなものは消失しているのでは?)

 個人は世の中や社会に対し、初めから不平等な関係、葛藤を孕んだ関係として成り立っているとの諦念がベースになっている。その諦念が長い歳月のあいだに澱(おり)のように胸奥に沈みこみ、怨恨、不人情、憎悪、嫉妬といったものが積み重ねられる。それを「恨の文化」という。

 韓国人にとって、「恨」の感情は生活であり、芸術であり、同時に哲学であるという点で、同じアジア圏のどの国よりも強い「恨」の念を抱いている。

5.韓国では、万が一、親族のだれかが屋外で死に至った場合、決して屋内に運びいれることはせず、葬儀は屋外で行なわれる。屋外で死んだ人の霊は鬼神となり、屋内に入れると、親族に祟りをなし、生者、死者ともに不幸に陥るとの信仰があるから。

 韓国の巫俗(シャマニズム/日本でいう霊媒師)は歌と踊りで儀式をとり行なう。韓国民族は踊りに対してはきわめてポジティブで、活動的な意味を潜在的に付与していることを象徴している。外来のジャズ、ツイスト、ディスコなどに対しても、老年層は別にして、否定的な態度をみせる人は僅かであり、踊りへのエネルギーは強く、逞しい。(韓国の歌手たちは例外なくダンスが上手だし、躍りながら歌う)。

 韓国人は他人の死に関しても、あれこれと意味づけするのを好む習性がある。善神、悪神の区別が韓国人の身にしみこんでいて、天寿(長寿ではない)を全うできずに死を迎えることは悪神への敗北を意味し、恨が残るという、だれもが同じ意識構造をもっている。

 (天寿が何歳なのか、どうやって判断するのか? 当人が事故死した場合しか判断はつかないはずだ。いや、事故死すら、ひょっとしたら天寿だったかも知れない)。

6.作者自身が1950年、51年に経験した「朝鮮動乱」では、中国軍の兵士は悪さをしなかったが、北の人民軍もアメリカ軍もイギリス軍も、兵士は例外なく、韓国女性を捕まえては強姦した。

7.1980年から82年までの調査では、韓国のほうが日本より自殺率は高かった。男が全体の7割を占め、年齢は15歳から24歳が最多(日本では50代以上に多かった)で、一時的興奮、情緒的なアンバランスや、希望が成就しない社会的敗北者というイメージから失望して、自殺に至るケースが多い。以後、長いこと、日本人の自殺者は年間3万人を越え、最近に至って企業間の競争の激化が企業内の労働者間の競争の激化を産み、それが負け組みの自殺を喚起していると仄聞する)。

 また、女性の場合は貞操観念との関係が強くあり、これも儒教的な倫理観に基づくものだが、純潔が汚された場合、純潔が疑われた場合、犯される可能性が不可避の場合などに自殺するケースが顕著。日本に比べ、韓国社会では過度に貞操の美徳が強調されており、「一夫従事」という観念に束縛されている。

 子供を道連れにしての自殺行為「心中」は日本にも韓国にも共通して存在する。いずれも、子供は親の分身であるとの儒教的な思考をベースに持つが、厳密な意味では、別の人格、自分とは違う存在の命を断つことは、その子の将来を奪う殺人行為だが、両国ともに、子供は親の所有物だという意識から抜け出せず、人間の生存権への意識の低さを象徴的に表している。

 (自殺に関しては、日本の作家(芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫など)の特徴を上げたり、「切腹」にまで言及しているが、現今の日本の自殺が、インターネットを使って自殺願望者を募り、集団自殺をはかるという過去に例のない現象が起こっていること、さらには1年に3万件以上の自殺が継続していることを知っていたならば、「自殺」をテーマとした部分の説明はそれなりに違ったものになっていただろう。明治、大正生まれの作家、詩人らの多くが自殺、あるいは心中をした事実は消しがたい日本文学界の恥部だと私は思っている)。

8.韓国人の祖先崇拝は儒教における絶対的な意味をもつ。夫婦は子孫を残すこと、それこそが祖先に対する責任だと考える姿勢。

 (祖先崇拝は沖縄と同じ。おそらく、沖縄は琉球王国時代の中国との関係で、儒教を学び、祖先崇拝という信仰を受け継いだのであろう)。

9.韓国人は自家で飼っている犬を釜茹でにして食う習慣がある。客人をもてなすにも、犬肉を使う。作者の育った村では、犬を火に炙(あぶ)る場面に何度も遭遇した。また、飼っている犬を盗まれるケースも僅かではない。

 (インドネシアをはじめとする途上国に共通したことで、犬はペットではなく、食用に供されるし、市街で売ってもいる)。

 
 以上だが、作者はキリスト教に帰依しているらしく、しきりに「汝の敵を愛せよ」という聖書の言葉を援用するが、西欧人がいう「汝の敵」というときの「汝」は、同じ白人で、同じ教徒をいうのであって、「異教や異民族を愛せよ」とは言っていない。それが証拠に、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガル、オランダ各国の兵士は植民地拡大のための争奪戦の時代、植民地化した地域の原住民の多くを殺戮している。しかも、イギリスでは、現在時点で、人口の半分が神の存在を信じていない。アメリカもイスラエルも、異教徒を攻撃しているという点では同じである。宗教というものは救い難い頑迷さに引きずられ、異教徒に対してはもとより、同じ宗教の別会派に対しても敵対意識を隠さずに掲げる。キリスト教徒もイスラム教徒も同様。

 また、韓国で男女による性差が強調されるのは、北との、どう決着がつくか判断を超える関係が継続し、徴兵制度が存在することに根があるのではないか。日本のように平和が続けば、男は軟弱になり、女の社会進出が容易になって、経済力を手にし、結婚生活はむしろ女の側が仕切るような事態が生まれ、少子化という思わぬ現象が社会に現出する可能性が韓国にもあり得ることは否定できないだろう。

 「男は男らしく、女は女らしく」という社会構造は概して途上国に多く見られ、先進国では死語になっているか、言葉として口に出せないタブーになっている。また、途上国で女上位にある国に共通するのは、男が優柔不断で働かず、主婦が働き手で家族を食わすケースがしばしばあるからであろう。私が6年を過ごしたバリ島でも、概して、男よりも女のほうが働き者が多く、決して弱くない。同じことは沖縄にも言える。

 儒教は朱子学とともに日本にも伝えられたものの、日本社会にあっては、もともと存在した日本的社会倫理観と武士道と混在する形で、部分的に生かされ、変容しつつ今日に至っている。


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2 Responses to “恨(ハン)の人類学/崔吉城著”

  1. 崔吉城 より:

     偶然にネットから貴下の書評を見つけたのはショッキングなことである。そのように読んでくれる人がこの世にいらっしゃるということだけで幸せであります。有難うございます。

  2. hustler より:

    著者ご自身からのコメント、恐縮です。著者がしっかり自制しつつ、このコメントを書かれた様子を想像し、「流石」との思いが胸に満ちました。私の著作に対するコメントに対し、言いたいこと、反論したいことなど、幾らもあっただろうと推察するからです。ありがとうございました。

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