愛国の作法/姜尚中著

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「愛国の作法」 姜尚中(1950年生/韓国と日本とが母国/東京大学院情報学環教授)著
朝日新書  2006年10月初版  ¥700

 

 愛国とか愛国心とかいう言葉には、真っ向から論ずるには、尻込みするものを私は感ずるし、ぎょっとさせるもののあることは確かで、本書を手にすること自体にも躊躇するものがあった。

 そもそも、私自身、愛国とか愛国心とか、自ら口にしたことはない。だいたい、「愛する」という言葉自体、かねてからこの国では使われなかったし、異性に対して使われるようになったのは最近のことだ。「好き」という言葉は使えても、「愛する」という言葉には照れを感ずるのが普通の心情だったと思う。おそらく、「愛」とか「愛情」とかいう言葉は明治時代に翻訳されて出来た言葉ではないのだろうかと憶測していたが、16世紀に東北の米沢藩が兜の上に「愛」の旧漢字を飾りにあしらっていたことを偶然知り驚いた。ご存知のように、米沢藩は上杉謙信の一族が豊臣秀吉政権が樹立したときに国替えとなった東北の一地域であり、上杉に仕えた直江兼続の兜に「愛」の字があった。

 とはいえ、「愛」という言葉を日本語では口にしにくいというばかりではなく、その言葉が抱える支配域というか、明快な意味合いというか、そういうものが見えにくく、英語なら口にできても、気軽には使えないという感じが今でも日本人にはあるような気がする。英語でいう「LOVE」には男女間や家族間で使われる「愛する」という意味のほかに「大好き」という意味合いもある。

 本書の冒頭にも、社会学者、清水幾太郎の著書「愛国心」の一節として、「愛国心という言葉は心の急所に触れるものがあるが、この言葉はいかにも後味が悪い。はっとするけれども、その後に、なにか割り切れぬもの、宙ぶらりんのもの、滓(かす)のようなものが残る。この言葉によって掻き立てられた心のさざ波は暗いところに吸い込まれてしまう。この後味の悪さに、現代の我々の地位と運命とがのぞいている」との文言が披露されているが、わが意を得たような、ある種の重力を感じせるものがあり、後続する著者の意見に接することに大きな期待を抱かせられた。

 ところが、繰るページ、繰るページ、内外の学者や作家の「愛国」に関連する言説の紹介ばかりが連続、ときに他人の言説を厳しく否定しながら、あまりに多くの言説を並びたてるために、当然ながら、個々の文言にはそれぞれの人間の個性や癖があるため、文章に一貫性が欠け、読み手としては読みづらい上に、次第に歯がゆい思いに陥ってしまう。

 要するに、読み進めれば読み進めるほど、問題の焦点がぼけてしまうばかりか、「著者は他人の説で身をかため、どこからも批判できぬように武装しようとしているのか」との疑念が脳裏を去来し、実際の意図がどこにあるかが明確さを欠き、最終的には読み継ぐ気力を萎えさせ、私は半分ほどで読書を中断、放棄するに至った。

 本書の文章には、なんとなくだが、世間や読者に対する挑戦的な面も窺え、2007年10月22日に書評した「日本・サバイバル」から期待した気分が次第に希薄になった。


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