技術は地球を救えるか/長崎浩著

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「技術は地球を救えるか」 長崎浩(1937年生/東京大学物理性研究所を経、東北大学医学部リハビリステーション医学研究施設IBM技術協会会長)著
作品社  1999年3月 単行本初版

 

 「世界では、いま何かが急速に変化しつつある」という言葉が恐怖を誘う。環境問題については、ある程度知悉しているつもりだったが、本書からは目から鱗が落ちる思いを味わった。以下はその内容をかいつまんで紹介する。

 現代技術は過去と異なり、自動的に進歩し、自己肥大する。人間が主体ではなく、技術の行く先はただ先行する技術的諸条件だけで決定される。このように技術は自然の世界を破壊し、排除して、人工世界に変貌させていく。二つは別の世界にあって、共生はあり得ない。道具なら人間が媒介して得る手段だが、機械から経済や政治の組織と活動のあり方、民衆の考え方にまで技術が浸透していく「技術現象」であり、人間はこのシステムに振り回される運命にあることを暗示している。

 技術現象は目的をもたず、進化の方向を予測できない。先行する諸要素の組み合わせが新しい技術的要素を提供する。重責された技術がさらに新たな技術を次第に実現していく目的や計画はそこにはない。未来に対して盲目的で、全くの因果律だけの領域が現代を支配している。技術システムの進化は人間にははなはだしい害をもたらすが、これすらも技術によってのみ解決の方策を見つけだすしかない。

 以上はフランスの社会学者、ジャック・エリュールの「技術論」によるものだが、現実に、その後、軍事、工業、情報通信など、あらゆる技術で彼の時代とは比べものにならぬ革新と発展をみせている。現在では、先端技術と技術革新の最前線を紹介する記事、記述がどこにでも溢れている。

 地球環境の問題が技術の将来に無視できない制約となっているが、これも技術によって解決されるだろうと考えていいだろう。(そう、楽観していいのだろうか)。

 技術の功罪を論ずれば、必ず不毛な対立論争を生む。エリュールは「技術が人間を技術の奴隷にする」と言い、「人間は技術の世界から逃れられない」とも言った。技術は自己と、その進歩分を代入する形で増殖するからだと。

 地球環境問題もテクノロジーにとって、結局のところ、人類社会と地球生態系の保全の問題に突き当たる。現時点における技術論に人間中心的な価値観や評価が居座っていることに、まず解決すべき問題がある。

 「人間にとって技術とは何かを問うまえに、技術にとって自然と人間とは何か」という視点で、逆に迂回し、技術と自然観を広く捉えてみたい。恐ろしい速さで疾駆する技術現象の影に身を染めながら、知識が知識の安心立命の根を下すところを求めたい。

 環境ホルモンの問題はテクノロジーがしでかした大きな不始末である。環境に安全はもうないと考えていい。環境系として生態系を、そして環境をみることにより、テクノロジーの制約条件も可能性も明らかになる。

 現代科学技術と地球環境学に工学分野の権威筋から多くの発言が寄せられているが、テクノロジーがテクノロジーの理念で変革する要のあることを異口同音に言っている。これは、科学技術が自らの身を食む工学の危機と困惑を言外に表明している。

 地球環境問題は(1)オゾン層の破壊(2)地球の温暖化(3)酸性雨(4)有害廃棄物の越境移動(5)海洋汚染(6)野生生物の減少(7)熱帯雨林の減少(8)砂漠化(9)発展途上国の公害問題。

 温度の上昇はこれまでの地球の機構を撹乱し、異常気象は生態系の大規模な改変を促さずにはおかない。気候も生態系もやがて新たな定常状態に落ち着くであろうが、それまでの過渡期に人類社会がこうむる難題や人口移動を考えるだけで明白。ところが、生態系がこうむる影響や被害は温暖化以上に科学的予測が難しい。何よりも、因果関係を証明することができないため、政府間協議でも、「証拠の全体を勘案して、機構への人為的影響が認められる」としたが、「認められる」という文書を選ぶのにも、数時間の討論を要した。

 ひょっとしたら、地球の温暖化というトレンド自体が見込み違いである可能性もあり、虚構であるかも知れないのに、地球の温暖化という科学上の問題が法的拘束力のある国際条約にまで転化すると、問題は今日の国際的な力学にすこやかに換骨奪胎される。

 自動車の排気ガスを1%削減するなどというのは、姑息な手法であり、問題そのものにテクノロジーが肉迫し、テクノロジーに解決させるのが本筋であり、地球環境問題はテクノロジーにとって、いささかも奇妙な問題ではないかのような印象を与えている。

 オゾン層の破壊は1974年に予想され、NASAが南極上空のオゾンホールを確認したのが1984年。モントリオール議定書でフロン削減計画が承認されたが、オゾン層が回復されるのは来世紀だと言われる。この問題に限らず、人類は過去のツケに人類社会は直面している。

 これに対し、石油文明はフロンのように二酸化炭素の生産中止というわけにはいかない。人類社会が一定量の二酸化炭素を排出してしまっているという過去があるからだ。今後の二酸化炭素排出により生ずる温暖化はこのベースの上に加算される。

 科学技術文明が地球上にばらまいてしまった原因によるものは他にも多い。化学物質による土壌の劣化、大気および海洋汚染など、公害のように地域限定の問題なら回復見込みは立つが、地球規模では、実際上も原理上も、技術には扱いきれない。(海洋汚染は海底汚染も含んでいる)

 さらに、もう一つの、もっと直接的な「自然的必然性」が密接に絡んでいる。人口爆発である。世界の平均気温の上昇と平行するように人口が増え続けていて、この傾向は今後も止まらないと予測されている。来世紀には100億を突破すると言われており、これは砂漠化を進め、食糧事情を悪化させ、貧困の南北格差を拡大し、人口移動の圧力を強め、エネルギー消費を増大させ、環境汚染をさらに深刻化させる。

 気候変動と、それによる生態系の撹乱の実際は「不確かさの二乗」とも評すべきほどに予測が難しい。

 細菌が外的条件の変化、たとえば、抗生物質にさらされると、もともと少数派ながら紛れ込んでいた耐性菌がこの淘汰圧のもとで一挙に増殖する。細菌の逆襲と呼ばれる事態になり得る。

 気候変動を通じて、その影響が生態系を巻き込んでしまうところに、問題の問題たるゆえんがある。気候変動が結果としてもたらすであろう生態系の絶滅、転移、進化に直面したとき、テクノロジーはあらかじめ予測し、準備することはできない。

 温暖化の影響は後進地域の貧しい人々に選択的に降りかかると予測され、この点の配慮が中心課題となる。地球温暖化や人口爆発は予測の確度が高く、不確かさが付いて回るとはいえ、ことは物理学であり、同時に、生物学の範疇の問題である。

 地球環境問題が科学技術の不始末、科学技術が自然を征服した結果だとしたら、これはテクノロジーに対する「自然の逆襲」でなくてなんだろう。

 吉川弘之は「逆工場」のなかで、「製品の廃棄過程までも予め組み込んだ設計思想が実現されれば、地球全体との循環系のなかに人工の循環系がすっぽり入って、自然の循環系が矛盾なく共存できる」と言ったが、科学技術にとって原理的に不可能だという反論がある。エントロピーの限界が科学技術の限界だらからだと。

 実際にはクリーンな工場群とダーティーな地域の分離、地球全体では南北を分かつことになるかも知れない。地球環境問題は自然から物とエネルギーを収奪し、廃棄するだけの科学技術が地球循環系にすっぽり入って共存することができないところで、発生している。科学技術が地球の循環系に根本的に制約されているからだ。であれば、地球全体の循環系のなかにすっぽり入ることのできる人工の循環系とはどんな技術なのか。

 空気中の二酸化炭素は地球表面を複雑にして大規模な循環をくりかえしている。海水表面との間では吸収と放出、海中では植物プランクトンなどの生物が水と二酸化炭素のやりとりに関係する。海水は海流や深層流となって地球の水平、垂直方向に循環する。陸上では、植物が光合成によって、空気中の二酸化炭素をとりこみ、酸素を放出している。炭素には年間500億トンは植物や動物の体形を変え、これはやがて遺体、排泄物となって、土に返る。これは、いわば、地球の生ゴミであり、土壌微生物などが分解し、炭素分は二酸化炭素として再び大気に戻る。もしも、この「廃棄物処理」過程が欠落していれば、地球はゴミで溢れてしまうだけでなく、空気中の二酸化炭素はわずか15年で枯渇し、植物は絶滅する。地球全体の過不足のない物質循環は地球環境の維持を可能にしてきた。二酸化炭素も地球の循環系の一要素であり、植物が吸収し、酸素を放出するわけだから、必要不可欠のもので、問題はどの程度の二酸化炭素までが地球の循環系にとって最大許容量かであるのか、これが誰にも判らない。

 自然環境に人工の廃棄物、つまり化石燃料に由来する二酸化炭素(炭素分にして年間50億トン)が付け加わる。これは産業廃棄物であり、これらが付加する二酸化炭素がすべてそのまま大気にたまるわけではない。海や森林がどの程度の吸収能力をもつのか、つまり二酸化炭素が全循環系に複雑に絡んでいくだろうが、確かなことは誰にも判らない。ただ、動植物と微生物生態系が働かなければ、この循環系は過不足なく回らない。水や窒素の地球循環についても同じことが言える。

 生態系を豊かに維持すること、地球の循環系に従うことを目標に、技術そのものを問い直すことは科学技術にとって可能だが、これには、工学と生物学という異なるフィールドの技術が持つ理念自体に大きな転換が要る。

 これまで、人類社会はビルを建設し、舗装道路を敷設することで、その下の土壌に棲んでいた小動物、微生物、細菌を大量に殺害してきた。現代の人間が家庭、事業所、工場などから出すゴミはむかしの生ゴミではなく、循環系のなかに組み入れることはできず、新たな人工的処理を行い、このことが環境汚染となって返ってきている。

 進化という予測不可能性:

 抗生物質の投与が淘汰圧としてかかり、他の細菌がみな淘汰されるなかで、薬剤耐性を示す突然変異体だけが自然選択されて生き残る。

 地球は、融けたマグマの球体が物理法則の必然に従って冷却、凝固して現在の地球となったのだが、その過程は地球内部の対流というカオス的現象を通じて、一回きりのイベントの連鎖として理解すべきであり、生物の誕生も一大イベントであり、これがまた地球表面の環境に大きな影響を与え続けてきた。環境問題が生起する「環境」もまた、このような歴史の産物にほかならない。

 現在、各家庭に送られている水道水には「活性汚泥法」という法律が関係しているが、「活性汚泥法は難しい」とは専門家の正直な感想である。悪臭がひどいため処理場は密閉して環境から隔離するが、膨大な余剰汚泥が生産され、水切りをして焼却場に運ばれる。放流水は海に捨てられ、国土の水循環にリサイクルされることはない。下水には工場排水の合流も許可されているため、活性汚泥法本来の理念が貫徹できない。

 栗原康に生物系「ミクロコズム」というのがある。無機塩類と0.05%のペプトン(アミノ酸)を含んだ水を工夫し、500ccのフラスコに入れ、これに野外に放置しておいた竹の煮汁をごく少量移植した上で、24度Cで12時間の明暗をくりかえす蛍光灯のもとに置き放して、観察する。まず、細菌がペプトンなど培地の栄養物を摂取して水が白濁するまでに増殖する。ところが、二日ほどすると、こんどは原生動物が細菌を餌として増えはじめるが、細菌の排泄物は原生動物にとって毒であるため、原生動物の数は一定の量でピークをうつ。ついで、ワムシと細菌の関係も原生動物と同様だが、この間に細菌の排泄物を栄養源としてクロレラと藍藻が増殖して廃棄物処理をするから、原生動物が死滅することはないし、ワムシもクロレラを食べて生きることができる。藍藻とクロレラの排泄物は、しかし原生動物とワムシの増殖を抑制する効果をもち、結果として五種類の共存が成立し、何年もこの系は同じ状態を維持する。フラスコの上部を遮断して空気の流通を止めても、変化は起こらない。栗原はこれを小さな宇宙との意味で「ミクロコズム」と名づけた。

 この安定は系を構成する各種個体群の消費、増殖、排泄、そして死が相互に組み合わさって全体を成立させている。たとえば、細菌だけを培地で育てると、はじめは猛烈な勢いで増殖するが、やがて自らの排泄物のために絶滅してしまう。フラスコに農薬を入れると、ワムシ、原生動物、クロレラ、藍藻と順に死滅し、最後は細菌だけが細々と生き残る。リン酸塩を加えると、クロレラと藍藻はどんどん増殖し、細菌もある程度増えるが、原生動物とワムシは姿を消す。大量のペプトンを加えると、細菌が大繁殖するが、他の生物は壊滅する。大量のワムシを外から加えると、ワムシはクロレラを食べて排泄し、最後には細菌と藍藻だけが細々と生きる状態となる。

 つまり、人為的な生態系への介入は構成を偏らせ、食物連鎖を短くしてしまうことが理解できる。栗原は、また、この安定相を「共貧関係」という言葉で表現してもいる。この実験は、自然との共存を望むのなら、生態系を技術行使の対象にしてはならないことを明示している。

 河川に人工的な手を加えずにおけば、川底の大量の砂と石に付着する多様な微生物、苔、藻などが水の浄化過程に参加する。地球の物質循環も同じであり、水、土壌、生命の蘇りを保証する。

 さきほど述べた「活性汚泥法」でも細菌や菌類、原生動物、微小動物が拘わっており、排水処理を生態系に依存している点に問題の根源がある。生物のシステムを統御する自然法則をテクノロジーは知らないからだ。

 テクノロジーとエコロジーは相性が悪い。テクノロジーは技術の画一化を図りたがるがゆえに、技術の成績を犠牲にしてしまう。排水処理は人間の経験技術でしか解決できないだろう。テクノロジーの嫌う属人性、地域性、歴史性を取り戻す必要がある。技術にしても、生態系が個性的である事実を配慮して対応していかなくては成功はおぼつかない。

 自然に親しむ、地球に優しくと、情緒的に唱えるだけでなく、そこに一本の技術思想が自覚され、育てられ、教えられる。このような背景の力がなければ、生き物がらみの技術について独自の、行き届いた評価がなされる風土は育てられない。エコロジーとテクノロジーの対立を緩和する技術の努力も報われないだろう。

 バイオテクノロジーの分野で、テクノロジーという名に値するのは「遺伝子組み換え」の技術であり、この技術の潜在的可能性と適用の射程は大きい。とはいえ、治療という点では、技術の有効性、安全性の評価を受けなければいけない。また、実験室で生まれた新しい生命体を野に放っても生き残れるか、あるいは思惑違いの害をなさないか、予測の外である。新生物は自然淘汰にさらされて生きてきた種としての経験も歴史をもたないからだ。むろん、地域性も無視される。

 物の技術はほとんどが大量生産可能のものでないと成り立たないが、自然生態系の反応は文字通り、千差万別で、画一的な適用は効果が期待できない。たとえば、農業を農家個々が工夫した独自の技術でなく、大型機械、農薬、化学肥料、除草剤などを使って画一化を図った結果、近代農業が自然破壊の主たる分野になってしまった。田園にはドジョウも、メダカも、ザリガニも、フナも、ゲンゴロウも、水スマシも棲めない。当然ながら、そういう田で育つ稲作はトップレベルのものではない。質の良い米をつくろうとすれば、個々の農家の手に委ねるしかない。農業技術は経験と勘に頼るワザである。ハイテクとは逆説的だが、個人のワザこそがトップレベルの農作物の生産を可能にする。農作の難しさはそれぞれの地域の土壌に適応しなくてはならない点にもある。それは、医療の現場で、「病気を診て、病人を診ない」という近代医学と相似の関係にある。こうした技能、技術には、レシピもマニュアルもない。

 テクノロジーは地球規模でみた場合、気候の原理を制御できないし、予測もつかない。気温の振れ幅が増大し、台風の猛威と乾燥化が同時に進行するという局面において、テクノロジーに打つ手はない。

 人類は頑固な客観的法則性に折り合いをつけながら、労働力、労働手段など、労働対象を改善し、そこに技術史と呼べるような歴史を蓄積してきた。生産的実践の定型化(生産様式)を可能にする客観的なものの存在することの認識を深めていった。そこには自然を征服するのではなく、観念して自然に適応し、服従する思想があった。

 技術には科学をはるかに先行する独自の歴史があり、そこでは人間の技術的行為ともいうべき行動と思想とが重ねられてきた。現代の科学技術はつい最近になって現われた、この形の一つである。であれば、技術的行為はそのものとして思考するに値する。科学技術が一人で増殖、進化しているかにみえる現代では、「技術現象は自然と人間にとって何なのか」という問いがポピュラーになるのも頷けるが、これに対して「自然と人間は技術行為にとってどんな存在なのか」という設問の射程は歴史的にも思想的にもはるかに遠く、深い。技術思想の独自の水準がここにある。

 科学技術の不始末が「近代技術思想の限界」として浮かびかってきて以降、現代技術の問題点も公害、地球環境問題、あるいは技術による人間疎外などとして論じられている。科学技術があまりにも過度に人間の欲望に奉仕しすぎた結果が問題の根なのである。

 現代人は今、健康であることが強迫観念になっている。こうした動向はさしあたって、現代の科学技術に対する反動現象とみなし得るだろう。科学技術は依然として人間の幸福という最大にして究極的な目標に充分に応えていない。とりわけ、病苦を治すはずの医療技術はその典型であり、であれば、この技術分野の他に、もう一つ、民間療法の領分が手付かずにとり残されていることに着目すべきではないか。

 人体生命現象の分野では解っていない部分が多い。自分の尿を飲んで病気が治ったという事例さえあり、医療はこの事例に解説を加えることはできない。霊界と感応する技術が医療がギブアップした病気を治し、浄霊によって体内の毒結を消し、健康を回復する例も存在する。こうした民間の、非科学的な療法を無視していいものかどうか。

 内分泌の撹乱科学物質である環境ホルモン(ダイオキシンなど)が生体に及ぼす危険は文字通りいたるところに存在する。環境汚染のどんづまりというべきところで、この問題が生起しているのであれば、これは現代思想の課題にほかならない。

 環境ホルモンによる環境汚染はあらゆる公害問題とはスケールも桁も違う。汚染が及ぶ範囲が地球規模に広がっている。背後には何万という化学物質がすでに地球にばらまかれている。

 かつて、ドイツに留学した医学者たちにとって、医療に関する印象はあまりに強烈であり、国を挙げての革命的成果を受け入れ、それまで頼っていた東洋医学をいともあっさり捨ててしまった。薬の過剰使用などによるショックはいまも日本の医療現場に抜きがたくあり、刻印を残している。

 医学モデルは疾病をあたかも病者とは関係がないものの如く扱う。物理的因果に乗り切れない人間存在を科学技術が触れてはいけない魔界のごとくにモデルの外に排除した。体調が悪くても、検査の結果、どこも悪いところはないと言われ、患者とは認めてくれない。医療は生き物である人間を相手にしているにも拘わらず、その点を等閑に付し、国民の医療行動をも型にはめてしまった。

 アメリカが環境ホルモンを調べた結果、化学物質は1万5千におよぶと発表した。異なる化学物質の相乗効果は一層解明が難しい。従って、いまなお、環境ホルモンによる健康被害は不確かなままである。また、すでに環境にばらまかれた化学物質は技術によって取り除くことは不可能。

 我々の生活空間、家屋、職場、通勤の途次、などには多くの化学物質に囲まれ、多くの人が何らかの不調を訴えているが、人間が生き物であるがゆえに、体質により、発症の仕方は千差万別、これに医療は対応できない。人間の身体がいまや向き合っている何かしら曖昧で不気味なグレーゾーンとして、その存在を暗示している。

 喘息や皮膚炎、アレルギー性の症状が国民病ともいうべき広がりをみせてから何年にもなるが、こうした生活病は国民に深く浸透し続けている。地球規模であれば、事態は先鋭的な対照をみせている。

 有害物質にさらされている人は地球規模におよぶから、危険率に人口をかけた集団のリスクは無視し得ないものになる。こうしてみると、医学モデルが定義する病気、危険の概念は、最早齟齬をきたし、リスクの概念は捨てなければならなくなる。人間の健康に害をおよぼす恐れのある化学物質のリストは今後とも増大する。

 環境ホルモン問題の背景に浮上するのも、人間の健康被害と環境汚染という言葉の間の多次元で錯綜した因果関係の網目であり、いずれも、直接観察し、測定できない因子である以上、それぞれの因果的な関係は判らず、環境が健康を損なっているという命題だけが脳裏にあり、まさに「群盲、象を撫でる」状態というしかない。

 少なくとも、リスクの相対的に高い化学物質は世の注目を集め、その圧力を受けて、リスクを落とす技術開発が加速されるだろう。開発に要するコストに社会がどこまで耐えられるかもテストされるだろう。

 人間存在そのものが生態系であり、人体に棲みついている微生物は人間を宿主にして宿主には目立った害を与えることなく、宿主との間、および微生物相互間に生態学的平衡関係を保って生きている。食物の吸収、消化を助け、ビタミンを合成するなど、多くの有用な働きをしている。とりわけ、免疫システムの前線で外来病原菌の侵入を防ぎ、宿主の免疫機能を刺激している。ところが、環境問題はいまや人間の健康被害を超え、広く地球生態系と生物多様性の破壊の問題にも広がっている。

 生態系の指標にとって最も重要な問題はシステムのバランスの乱れである。農耕文明がそうであるように、人類はもともと環境生態系を偏ったものに単純化することで増殖してきた。人間のために自然をつくり変えてしまった。熱帯雨林の伐採による開発がどれほど生態系を破壊したか計り知れず、度が過ぎたとしか言いようがない。

 環境の悪化は生態系の破壊につながり、生態系が病めば、人間環境も追いつめられる。環境と生態系は因果ではなく、まさしく環境によって繋がっている。この社会に安全な環境などはもはや存在しないことを人々は知っている。

 まとめ:

1.地球規模のエネルギーと物質の循環、ここに生じている地球史的な変化は端的に気象循環の変動として現われる。

2.地球規模の生態系は個々の無数の生態系をサブシステムとして成り立っており、各々が小さな循環系をなしている。

3.土壌は生命維持のシステムである。多様なバクテリア、菌類、昆虫などによって支えられてきた栄養系のリサイクルという土壌の働きが著しく損なわれている。

4.資源の人工的な循環、エネルギー、食料、水、鉱物、産業廃棄物ならびにバイオマス資源。産業技術が自然循環を侵犯しないためには、技術だけでなく、適切な技術製作が不可欠だが、自然循環から学ぶことは可能。

5.人間の体内循環、水、血液、人体は解放系。今後100年は続く文明史的転換期(自然の逆襲に対する)における人類の戦略はどれほどの人間を地球に生き残せるか。


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